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1.21 第3回ひだまり礼拝、無事に終わりました
おかげさまで、3回目のひだまり礼拝、無事に終わりました。
関わってくださったみなさま、ありがとうございます!
平良愛香先生目当てで100人くらい押し寄せたらどうしよう?! とパニクってました。
実際の参加者は14人でした。(いつも通りの少人数)(・∀・)
式次第です↓
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《本日の賛美歌》
♪「主こそまことの救い」(テゼ)
♪「ちいさなたね」(駒込平和教会 渡邊さゆり牧師作)
♪「キリストの風よ」(陣内大蔵牧師作)
♪頌栄「聖なるかな」(『讃美歌』546番)
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「せっかくだから平良先生の作った“わたしはおやを”を歌いましょう♪」と陣内先生に言ったら、「あれはみんなで歌う感じではないと思います。楽曲としてもちょっとハードル高いかなぁ」と却下され。まあ、たしかに。
平良愛香牧師のメッセージ「ちいさなたね」(抜粋)
聖書に「種のたとえ」があります。4つの福音書の3つに「種のたとえ」が、ほとんど同じに載っている。
「聞く耳のある者は聞きなさい」と書かれている。「聞けー! 聞いてー! 考えてー! 気付いてー!」という感じ。
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《ルカによる福音書8章4~8節》
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
今日は8節まで読みましたが、9節からキライなので読みませんでした。(笑)
《ルカによる福音書8章9~15節》
弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、“彼らが見ても見えず、聞いても理解できない”ようになるためである」。「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、あとから悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練にあうと身を引いてしまう人たちのことである。 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。
9節では、群衆がいなくなってから弟子たちに「彼らは見ても聞いても理解しない。神の国の秘密を悟るのは神が選ばれた人だけ。それも神の計画だ」と。
私は腹が立ったんですね。上から目線で。どうして分かりにくくする必要があったのか? 分かりやすくするために“たとえ”を使ったのに。イエスがわざわざ分かりにくい話をするとは考えられない。
福音書で一番最初に書かれたのはマルコ福音書で、マタイとルカはそれを元に書きました。マルコの「解説の部分」(4:10-19)は、のちの時代の人が「マルコが語ったように」書き加えたんじゃないかという研究があります。
「よい子になりなさい、正しい人になりなさい」じゃなくて、ぜんぜん違う話をしたかったんじゃないでしょうか? だとすると納得がいくんですね。
イエスが語りかけていたのは農民でした。漁師もいましたけど。当時のパレスティナの農業は素朴なものだった。種を手でわーっと放り投げたり、ロバに袋を詰んで、袋に穴を開けて種をまいて、それから地面を耕していた。当然、種はイバラや石の中にこぼれ落ちていた。無駄になる種も多かった。
収穫は10倍くらいが平均で、100倍になれば奇跡的な大豊作だった。だから、「えーっ、100倍?! すげーじゃん!」という夢のような話だった。そんな人々は「たとえ無駄になった種があったとしても、それ以上の収穫がある」という話として聞いたでしょう。「神のまいたものはそんなに沢山のものになるんだ!」って。
一見、人間の目には無駄に見えたとしても、そうじゃない。農民たちは失望しなくてもいい。収穫を望んで種をまき、収穫を先取りして喜んでいる。そのことをイエスは語ったんじゃないだろうか?
「よい土地になりなさい」とか「石地になってはいけません」とか「よい種になりなさい、しっかり芽を出しなさい」とか、そんな道徳的な話じゃ決してなかったと思うんです。
「たとえ無駄だと思っても必ず実を結ぶ」、そんな嬉しい話。
「それが神の救い、神の国の実現だ」、ということをイエスは人々に語った。
そして「実らなかった種は自己責任だ」なんてことは、ひと言も言わないんです。「道に落ちた種もあるし、イバラに落ちた種もある。でも神の言葉はそんなことでは無駄にならない。神の国は実るのだ」という“たとえ”だったのではないかなと。
それは“批判”とか、“いましめ”とか、“裁き”とかではなく、「喜びの宣言」だった。
だからこそ「聞く耳のある者は聞きなさい」と、イエスは大声で言った。
「この話を聞いて理解した人は喜びなさい! 喜びましょうよ!」と。
そこにいる人たちが1回聞いただけで喜びにあふれたイエスのたとえ話だったと思います。
朝から雨だったのに、メッセージが始まったら陽が差してきました。
なんかすげー!!
遠方で来られない人、不調で来られなかった人のこともお祈りしました。
1時間の礼拝のあと、お茶会が2時間。(笑)
「キライな賛美歌」の話で盛り上がりました。(ひだまりの趣旨は?!)
また集まりましょう。
次回は「やすらぎ礼拝(DV)」かもしれませんが。
またお知らせします。
マッサラーマ!(・∀・)/