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今日見た映画(2020/04/18)

・『ラッキー』 監督:ジョン・キャロル・リンチ(2007年)

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舞台はカリフォルニア州の砂漠の中の小さな街。齢90のラッキーは毎日決まったルーティーンを繰り返す暮らしを送っている。朝起きてヨガのポーズ。行きつけのカフェで店主に悪態をつきながらコーヒを飲む。しばしクロスワードパズルに興じたら、近くの店でタバコと牛乳を買って帰る。夜は近くのバーで常連客と他愛のない会話して一日が終わっていく。街の人々との会話からラッキーは偏屈な独居老人であることが伝わってくる。ある朝、いつものように起きてキッチンに立つと突然のめまいに襲われる。検査した医師は一言「老衰です」と診断する。ラッキーは急に死の恐れに直面することになる。このまま徐々に弱っていく肉体とどのように向き合っていくのか。恐れを心に隠しつつ周囲には苛立ちをぶつけていく。ある朝、いつものカフェで旅行者の男性と出会う。彼は太平洋戦争で沖縄に従軍した退役軍人だった。彼の語るエピソードがラッキーの死生観を帰ることになる。

ボロボロの服を着た7歳ぐらいの少女を覚えてる。彼女は俺たち米兵がこつ然と現れたと思ったらしい。その娘はまばゆいほど美しい微笑みを浮かべていた。上辺ではなく心からにじみ出た本物の笑顔だった。あの悲惨な戦地では余計に輝いて見えたよ。思わず足を止めた。肉片が飛び散り、完全に焦土と化した場所で、彼女は満面の笑みを。俺は衛生兵に言った。”俺たちを見て喜んでいる”すると彼は”仏教徒だからだよ。殺される運命に微笑んでいるんだ”と。少女が恐怖の真っただ中で見せたあの美しい笑顔を思うと、あんな時にどうやって歓喜を…彼女の勇気こそ叙勲に値する。

若き米兵の主観に基づく”沖縄の少女”。このエピソードは沖縄の人々からすれば受け入れがたいかも知れないが、この映画の中では重要な鍵として機能している。ラッキーはすべてのものが無(死)に向かっていたとしても、その現実を恐れることなく笑顔で受け入れる決意を表明する。毎日が単調な繰り返しであることに息が詰まることがある。しかしある年齢に達すると繰り返してきた毎日もいつか終わることを痛感する。その時、自分はどのように無と対峙するのか。ラッキーの生き様から学ぶことは多い。

・『甲野善紀身体操作術』 監督:藤井謙二郎(2006年)

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タイトルの通り甲野善紀氏の身体操作術についての作品。彼は様々な業界から招かれて講習会を開いている。介護・合気道・ラグビー・演劇とその幅は広い。このバラバラに見えるジャンルを串刺しに貫通している概念こそが身体を操作すること。もっと具体的に言えば、どうやって自分の力を使って人・モノを動かすか?という問いになると思う。彼の語りと実践を通して、我々はいかに既成概念に縛られたからだの動かし方をしているのか明らかにされる。なぜ歩く時に手をふるのか。手と足を交互に前に出すのはなぜか。当たり前と思っていたことが非効率的だと示される。そして軽々と大男を片手で跳ね飛ばしていく。途中に登場する精神科医の名越康文氏が登場する。私からすればシューイチの気のいいおじさんの印象だったのだが、甲野氏がまだそれほど知られていない時期に師事していたそうだ。身体操作術がアップデートされる瞬間に立ち会った際の感想を「恐い」と表現していたのが興味深かった。ケロッピー前田氏を案内人として身体改造というジャンルが日本の茶の間にも少しずつ知られるようになって久しい。あの身体改造は外からモノを入れたり埋め込んだりする。往々にしてグロテスクさを伴い人の目を引く。対照的に甲野善紀身体操作術は内側から人間の身体を改造していく。その出で立ちは穏やかな古武道の師範以外の何物でもない。しかし彼の身体を通して人間の身体が秘めている計り知れない力を体感するとき、視覚によるグロテスクさが与える恐怖を超えた”畏怖の念”を人にもたらすのだろう。

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