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掌編小説 | 浮く両足、浮かない片足


 やっぱりこの回鍋肉は塩辛い。美味しくも不味くもない780円の中華弁当を食べる手が止まる。自分ひとりの為にわざわざ早朝から手作り弁当を拵える気力などあるはずもないので文句は言えないが、せめてお金を払った分だけは正当に不満を感じて良いだろう。テーブルに裏返しで置かれたままの美沙ちゃんのスマホが、先程からぴろんぴろんと何度も鳴っている。幕の内にしとけば良かった、そう嘆いたところで今朝の私にはもう届かない。

「なんかお手洗い混んでましたぁ〜。」

 フェイラーのタオルハンカチを握りしめた美沙ちゃんが少し不貞腐れて帰ってきた。おかえり、スマホ鳴ってたよ、と伝えて1/3ほど残ったままの中華弁当にいよいよ蓋をする。30代半ばの胃をナメてましたすみません、手を合わせて心の中で懺悔。隣に座った美沙ちゃんは数秒前までの不機嫌がまるで幻かのように、すっかり鼻歌混じりでスマホを叩いていた。
 指導係と新卒という間柄で出会った彼女とは一度深く話してみると妙に気が合って、それ以来ずっと一緒にランチを食べる仲だ。休憩室の壁に掛かった大型テレビから流れる “葉山で夫婦水入らずデート” と銘打たれた恒例のコーディネートバトルをぼんやり見つめながら、ふと疑問が浮かぶ。

「ねぇ、美沙ちゃんって学生時代からお昼の番組といえばヒルナンデスだった?」
「んんっと、あ、多分中学生くらいまでは “いいとも” がやってて、でももう馴染み深いのはヒルナンデスの方ですね。」

 唐突な問い掛けにも関わらずパッと顔を上げて快活に答えてくれるところが、年の離れたこの子を好きだと感じる理由のひとつだ。そうか、私は高校も大学も、今の美沙ちゃんの歳になってもずーっと “いいとも” で、テレフォンショッキングに好きな芸能人同士が繋がるのを楽しみにしてたよ。・・・なんて、口には出さず飲み込んだ回想録と消化待ちの回鍋肉とでお腹がはち切れそうになりながら、そっか、とだけ呟いた。心も身体も厳しいのは確かに事実。それでも、年齢を自虐するような格好悪い先輩にはなりたくなかったから。


「先輩、ちょっと聞いてくれます?」

 スマホを弄り終えた美沙ちゃんが、何かを含んだ笑顔でこちらを向いてミルクティーのストローをぢゅっと噛んだ。そういえば先週、合コンで出会った年上の男と付き合い出したとか言ってたっけ。オトナでスマートで爽やかで〜、と微笑む幸せそうな表情が思い出されてスマホのぴろんぴろんが鳴り止まない理由に合点がいった。今日仕事終わったら彼氏とはじめてのお家デートなんですよぉ、と予想通りの話題を切り出した彼女に心からのいいね、を込めた相槌を打つ。お家デート。なんてあまくかわいい響き。

「で、せっかくなら夜ご飯作ろうと思ったんですね。私ふつーに料理好きなんで。だから彼に苦手なものある?って事前に聞いたら、サーモンって言って。じゃぁ焼鮭ならいいの?って聞いたら、特に好んでは食べないけどまぁ大丈夫って。それでね、え、何で生のサーモンだけダメなの?って聞いたら、なんて言ったと思います?だってオレンジ色だよ、って。やばくないですか。もう私ホントおかしくって。」

 ーーー淳弥かも知れない、と思った。サーモンのくだりから心臓がどくんとして、焼鮭はOKのところで変な汗が出て、オレンジ色で膝が震えた。椅子に深く座っていて良かった。浅く腰掛けでもしていたらコントみたいにずり落ちてしまっただろう。けらけらと笑う美沙ちゃんに気付かれないよう、肘置きをきつく握り直す。
 それはもう遠い昔、テレフォンショッキングを楽しみに待っていた頃のこと。淳弥と過ごした年月で思い出せる記憶といえば、僅かな不揃いの断片くらいだ。オレンジ色の食べ物なんて不自然で怖いと言ったひと、七並べがやたら強いひと、ごつごつとした手の節を持つひと、のんびり過ごすことが苦手なひと。休みの日だというのにわざわざ早朝からランニングをするところがとても好きで、その分堕落した自分自身を突き付けられるようで大嫌いだったひと。


「・・・変な、好き嫌いだね。」

 どうにか美沙ちゃんへの返事をしながら、拗ねたように眉を下げる淳弥の顔がうっすらと蘇る。とうに忘れていたはずのかつて愛した男の顔を、目の前の後輩も同時に思い浮かべている可能性があるなんて。
 何も知らない美沙ちゃんは、だから今夜はイタリアンにするんです!と笑ってカプレーゼやらパスタやらの献立を指折り述べ始めた。さて、どうするべきか。単に嫌いな食べ物と少々変わったその理由まで同じでも、淳弥だという確証はない。そして仮に同一人物だったところで、再会する気もヨリを戻す気も一切ないのだし。そもそも、むしろ私なら真相を知りたいだろうか? “付き合いたての彼氏が先輩の元カレ” いやいや最悪だわ、と想像しただけで余計に心が折れてしまった。
 狭い世間への恐怖と深入りするかの悩みで胃液が倍増しそうな最中、「まぁでも、」と美沙ちゃんの無垢な声がする。

「サーモンってなんていうか、人生に必要不可欠!って食べ物じゃないですしね。」

 どういう意味だろうか。理解できずハテナを浮かべたまま、再び彼女の顔を見た。

「や、あるじゃないですか、これだけは絶対欠かせないってもの。たとえば白米でしょ〜パンでしょ〜。それに、唐揚げとかイチゴとか!」
「ね、ちょっと。それ偏見ひどくてわらっちゃう。人それぞれでしょうよ。」
「うそぉ、このラインナップ結構万人受けだと思うんですけど。え、じゃぁ、先輩の必要不可欠ってなんですか?」
「・・・食べ物で?」
「食べ物でも、それ以外でも。」

 うーん、と困って考えるフリをしながらも既に答えはほぼ出ていて、それは奇しくも唯一ハッキリと残った淳弥との断片に記されていることだった。


『俺とお前は、多分生きる速度が違うんだよな。』

 その朝。いつものようにランニングから帰ってきた彼は、いつものようにベッドにいる起き抜けの私を一瞥してシャワーに向かいながらそう言い放った。決して冷たくはないのに失笑混じりの態度が余計に虚しさを増長させる気がして、ぬるいシーツの波の中で翌週にはこの部屋を出ようと決めた。
 
『走る、をもっと深く言語化したらどう説明するか知ってる?』

 浴室に3種類並べられているうちの “朝用” ソープを使ったであろうフレッシュな香りを振り撒きながら、冷蔵庫から取り出した炭酸水を握るごつごつとした手の節。自分には無い彼の真っ当さを好きになり、いつしかその眩しさを嫌いになったことがひどく可笑しかった。

『走るってのはさ、両足が同時に地面から離れる瞬間がある移動方法なんだよ。で、常にどちらかの足が地面に着いてる移動方法が歩くってことなんだって。』


 当時の私がそれらの問い掛けにどう応えたのか記憶が曖昧なのは、おそらく何も言わずに微笑んで終わらせたからだろう。どこまでも前を見て飛ぶように進む淳弥と、いつまでも味わうように片足を離さない私とでは、生きる速度がまるで違った。そんな簡単なことなど付き合う前から分かっていたはずなのに。一度も立ち止まってくれなかった淳弥も、たまには頑張って追いつこうとしなかった私も、どちらも悪くてどちらも悪くない。互いにペースを合わせたいとは思えないふたりだった、というただそれだけのことだ。
 思い返すと海馬がチリチリと痛むその苦い記憶は、一方で同時に私が大事に守る人生の指針にもなっている。


「デスクに隠したチョコと、仕事終わりのハイボールと、休日の二度寝。あとは、いつも地面に片足がついてる安心感、かな。」

 コーディネートバトルの決着が付いて盛り上がるテレビを観ながらひとつずつ確かめるように呟くと、残り僅かなミルクティーをずずっと啜った美沙ちゃんが「熟考した割に総じて謙虚なところがマジで先輩っぽいですね。」と、褒めてるのか貶してるのか分からない返事をくれた。
 淳弥は癖こそあれど悪い人ではないので、写真を見たり名前を聞いたりして確証を得るまでは黙っておこうと思う。美沙ちゃんがどんな速度で誰と生きるかは、彼女の意思と直感で判断するべきだ。その結果がどうであれ、私にとって美沙ちゃんがすっかり欠かせない存在であることに変わりはない。だからこそ、もしもの時に事実を語る覚悟だけは予め整えておく。先に積み重ねた10年分の経験値は、自虐ではなくここぞの余裕として使う為にあるのだ。



「ねぇ、今ならテレフォンショッキングで誰から誰に繋がるとテンション上がる?」

 午後めんどくさ〜と項垂れる美沙ちゃんに、恐らく乗り合わせた全員から放たれる同じ倦怠感で充満したエレベーターの中でひそひそ問い掛ける。減りゆく数字を見上げる彼女の眼は真剣に悩んでいて、この子のこういうところがやっぱり好きだと微笑ましく横目に眺めた。

「・・・菅田将暉からの、小栗旬。」

 扉から出た美沙ちゃんは、まるで何かを決意したように重々しくそれを告げてデスクに戻っていった。彼女の言葉を借りるならば「熟考した挙句しっかり豪華な名前を出すあたりがマジで美沙ちゃんっぽく」て、自席に戻ってからもニヤけが止まらない。しばらくしてからPC画面に届いたチャットには《 真剣佑からの郷敦ブラザーリレーとで死ぬ程迷いました 》という馬鹿なメッセージが綴られていた。

 引き出しにこっそり潜む甘美な宝石を一粒摘んで、憂鬱な午後のスイッチを入れよう。ランチがハズレでも胃もたれが辛くとも、ささやかな人生の必要不可欠は今日も私を充分幸せにしてくれている。


・・・


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』5月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はしる」。読んで外に駆け出したくなるような、疾走感あふれる6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。




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