掌編小説 | 世界のすべては3.24㎡
小春ちゃんはいつも2畳あれば充分というほどぴったり隣にいて、僕の胴にほっそりとした左腕をまわしてくれる。もう片方の腕はふたりの間に落として、右のこめかみを僕の左肩に当てながら(ヤマシタくんの肩ってジャストフィットなのよね、だそう)、アメトーーク!を観てくつくつ笑う小春ちゃん。鈴の音のような “くつくつ” が聴こえるたびに、僕の身体も連れ立って揺れる。まるで本当に鈴が鳴っているみたいに、ちいさく、ちいさく。
小春ちゃんは千鳥が好きだ。テレビに出ているのを見つけると、千鳥だ、と必ず嬉しそうな顔をする。他人を笑わせるよりも先に本人達が笑っちゃってるところが良いんだよね、とのこと。そんな独特な見方すらも可愛いなと思ってしまうあたり、どうやら僕は末期らしい。
「ヤマシタくんってどこの生まれだっけ。」
千鳥から目を離さず小春ちゃんがぽつり、僕に問う。
「・・・南のほう。」
千鳥を観ているふりをしながら黒目だけ肩先に動かして、そう答えた。
「んふふ、南。そっかぁ。だからヤマシタくんはあったかいのね。」
だから、という接続詞が僕の脳内ではまったく接続されなかったけれど、それ以上は何も訊けそうになかった。代わりに少しだけ頭を傾けて、頬に触れた小春ちゃんのやわらかな猫っ毛をぐりぐりと堪能させてもらう。
「なあに、ねむたくなっちゃったの。」
ミルクティーみたいにとろんとした声が好きだ。奥二重の目も、本人が気にしているちょっと低い鼻も、右にだけ出るえくぼも、全部好きだ。白くてつるつるの肌も、腰にある三角形のほくろも、何故かいつも黄色に塗られた足の爪も。全部全部、好きだ。
テレビを消してソファからベッドに移ってもなお、小春ちゃんは右のこめかみを僕の左肩に押しつけている。勿論、ほっそりとした腕はゆるりと胴に纏わりつかせながら。
前に一度だけ、この体勢がしんどくないのかと訊ねたことがある。
ーーーヤマシタくんの声帯が動くとね、ぶぶぶ、って額が揺れるのが、いいの。
すると、そう言って答えなのか答えになっていないのかよく分からない回答が返ってきたから、一先ず小春ちゃんの左手をきゅっと握った。そもそも回答なんてどうだってよかったのだ。僕が鈴の音を感じるみたいに小春ちゃんもその振動を感じているらしいことが堪らなく嬉しくて。これは共鳴だ、なんて馬鹿みたいなことまで思うのだから、もう本当に末期でどうしようもない。
暗闇の中、子供のようにぬくぬくとした小春ちゃんにやさしい眠気を誘われて、おやすみ、と声帯を動かした。おやすみなさいヤマシタくん、そう応えてくれた小春ちゃんの額は四文字分しっかり揺れただろうか。揺れていてくれ、と右脳でつよく祈りながら、朝食はクロワッサンにしよう、と左脳で明日に想いを馳せる。
「あたしのこと、はやく捨ててね。」
寝室の空気をしん、と震わせたその言葉は、小春ちゃんから届けられる一日の終わりの印だ。僕はきゅっと握った左手に、聞いたよ、の合図を込めてからようやく瞼を閉じた。ミルクティーみたいなその声がやっぱり好きだ、と心底思いながら。
小春ちゃんに出逢ったのは、寒く澄んだ夜だった。スパークリングワインをするすると飲み込む喉が妖しいほど綺麗で、今思えば、いや改めて思わなくともそれは完全な一目惚れ。自分でも訳など分からないまま沸騰しそうに次々と湧き上がる感情をぶつけた後、困ったように肩をすくめて小春ちゃんは言った。
「あたしはね、あたしを所有してるから、もうずうっと手一杯。他には何も持てないの。」
あぁ、恋の終わりは呆気ない。むしろ彼女にしてみればこんなの始まってすらないんだよな。途端に酔いが醒めてゆく頭で、そう思ったのに。
「役目が終わったらちゃんと捨てるのよ?淋しくなんて、ならないでね。」
ぬるいホッカイロが頬に当てられて、試すように掬われた僕の視線。たっぷりと水分を帯びた黒目からはもう逃れられない。だから、それでもいい?という問いかけに対する答えなど、イエス以外には有り得なかった。
そこからあっという間に夜は朝になって、そしてまた次の夜がやってきて。いつしか小春ちゃんが2畳の距離にまで近づいてくれても尚、僕はといえば相も変わらず、ただひたすら彼女に焦がれ続けている。
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ただいま、と声を掛けるといつもの間延びした返事がない。リビングの扉を開けると電話中だった小春ちゃんは口パクでおかえりー、と伝えて微笑んでくれた。それだけで満足して思わずビールを開けたくなる僕は、どこかクレイジーなのだろうか。
ーーーアキちゃんはさ、それで幸せなんでしょ。じゃぁいいじゃん。あの人達に言ったって無駄よ、そう、平行線。
ーーーうん、うん。あたし?あたしはいいの。元気で毎日楽しい、以上。うん、じゃぁね、今度また飲もうよ。はーい。
電話を切った小春ちゃんが本当にキッチンでビールを開けてしまった僕を見つけて、にやにやと近付いてくる。
「これはこれは、こんな時間から早速やっちゃいますか。」
そう言い終わる前に彼女が冷蔵庫の扉を開けるだろうことは、もう分かりきっていた。
「電話、別に続けてて良かったのに。」
「あー、いいの。ちょうど終わりかけだったから。お姉ちゃん。親が早く結婚しろって煩いらしくて。」
夕方からふたりでカウンターに腰掛けて飲むビールは、どうしたっていつもより美味い。
「小春ちゃん、お姉さんいたんだね。彼氏さんと結婚するの?」
「そう、6つ上。仲良いよ。彼氏はいるけどいない、熱愛不倫ちゅーだから、んふふ。」
ねぇ枝豆茹でちゃおっかぁ、鼻歌混じりに小春ちゃんは冷凍庫の奥をごそごそ漁っている。ご機嫌なメロディにかき消されるかのように、突然の新情報には何も反応ができなかった。
「アキちゃんね、あ、お姉ちゃんね、」
ビール片手にフライパンで枝豆を茹でながら、ふいに続きを話し出す小春ちゃんはえらく愉しげだ。
「不倫でもその人のこと所有してる、って思えるから別にいいんだって。あれは相当やばいね。アキちゃんってもっとあっさりしてる人だったのに。恋愛って人を変えるんだねぇ。」
あっやばい、ヤマシタくん、早くざるーー!という慌てた小春ちゃんの声に、僕はまた言葉を発するタイミングを見失ってしまった。ボコン、とシンクがお湯に負けた音がする。もしかすると、あれは僕の心が折れた音だったのかも知れない。
「小春ちゃん、って、」
リビングに移動して熱々の枝豆を口に放り込みながら、意を決して発してみたものの情け無いほど後が続かない。ふぇ?と枝豆を咥えてちらっとこちらを覗いた小春ちゃんはすごく可愛い。いつだって可愛い。
「・・・春生まれ、なの?お姉さんは秋生まれ?」
驚いた。ほんとうに訊きたかったあんなことやこんなことは、口からこぼれ落ちた瞬間にまったく違う台詞になっていたからだ。しかも、なんて馬鹿みたいな質問だろう。きっと人生で100回ぐらい訊かれているみたいな。
「分かりやすいでしょう、ウチの親。でもね、片方は正解、片方はざーんねんハズレ。」
「え、片方?・・・そっか、そういや小春日和って春じゃないのか。」
「おぉ、早い。ヤマシタくん凄いじゃん。そうなの、みんな大体勘違いするけど秋頃から冬の初めのね、あったかい日のこと。アキちゃんもあたしもそれくらいの時期で被っちゃったんだって。だから、あとから生まれたあたしが、小春。」
まぁ初冬ちゃんよりも可愛いから結果オーライだよね、と笑った小春ちゃんがいつもよりちいさく見えて、僕は彼女の華奢な右肩にこめかみをうずめることしか出来なかった。
「あれぇ、もう酔っちゃったの?あたしの真似?」
小春ちゃんの声帯が、僕の額をあまく揺らす。そのことが怖いくらいに愛おしすぎて余計に泣いてしまいそうだ。お姉さんがいたことも誕生日も知らなくていい。僕はあなたを所有したいという本音も恋愛は人を変えるんだよという事実も伝わらなくたって構わない。ただ、どうしても小春ちゃんを捨てられない。捨てたくない。そのことだけが四六時中胸を貫いて、2畳の近さにいるはずの小春ちゃんは今までもこれからも、ずっと遠くにいる。
「…………あ、千鳥だ、」
しずかな揺れに目を開けると、大好きな右のえくぼが見えた。僕はほんの少し眠っていたようで、どうやら小春ちゃんの肩もジャストフィットらしい。
「ん・・ヤマシタくん起きた?もぉー、重かったんだからねぇ。」
肩が軽くなったことに気づいた小春ちゃんが、わざとらしくトントンとマッサージするような仕草をしている。怒っても可愛い。いつだって可愛い。
「はぁい交代でーす。」
んふふ、と笑っていつもの定位置に潜り込む小春ちゃん。纏わりつくほっそりとした左腕。すっかり慣れてしまった心地よい重みと子供のような体温。トイレに行きたかったんだけど、なんていう本能の叫びには取り敢えず蓋をしておこう。生きてゆくのに欠かせないものが、3.24㎡に存在する間は。
ねぇ、小春ちゃん。僕が小春ちゃんを所有していないとすれば、最初から持っていないものは捨てられないよね。小春ちゃんも僕を所有していないから、同じだね。そんな屁理屈を言うとあなたは何て言うんだろう。できればミルクティーみたいにとろんとした声で、んふふって笑ってくれるといい。奥二重の目をふにゃりと歪ませて、呆れた顔をしてくれるといい。“捨てられなかった今日” をどこまで積み重ねられるのか、僕は知りたいよ。
くつくつ、と肩先で鈴が鳴って身体が揺れた。今夜もまだ小春ちゃんは僕と同じ世界の住人だ。他には何も要らない。揺るがないこの現実だけが、僕をどこまでも幸せにしてくれる。だから、それでもいい?という問いかけに対する答えなど、やはりイエス以外には有り得なかった。きゅっと握った左手が、一切握り返されることは無かったとしても。
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この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「すてる」。人が目を向けなくなったものや、誰かが手放したものに光を当てた6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。
こちらは、彼らが出逢うより随分前のこと。
小春の姉・アキが手にした “たったひとつの我儘” を描いたお話です。