私はわたしになって
書きたいことはたくさんあるはずなのに、言葉にするとなんだかうそに思えてしまう。
この頭のなかをぜんぶそのまま文字に起こせたらいいのにと思えば思うほど、指先をすり抜けて液晶画面に浮かんだときにはもう、くるくると草原を走り回っていた裸のあの子たちはいつの間にかドレスアップしてしまっている。
温度のある言葉がすきだ、と思う。
温度のある言葉を使いたい、と思う。
昔から江國香織さんの編み出す言葉がそれはそれは大変に好みで仕方なくて、そのおおきな理由のひとつに「漢字とひらがなの絶妙な使い分け」というポイントがある。
そしてこの話題は、読者が江國香織という作家を好むかどうかのポイントのひとつでもある、と個人的に感じている。変にひらがなが多くて読みにくい、という声があることを知っているし、わたしのようにそれこそがたまらなく好きだというひとにとっては江國香織文学に欠かせない要素だと思うから。
わたしは恐れ多くもひどくその文体に影響をうけているタチなので、なにかを表現したいときや言葉を選ぶとき、まずは「漢字」か「ひらがな」のどちらがその感情に似合うか、相応しいか、をいちいち考える癖がついた。
たとえば、意識的に一人称として「私」ではなく「わたし」と呼ぶこと。
ばりばりと働けていた以前は「私」と書いていたけれど、なんだか今のわたしは「私」と称するほどぴっしりしていない。
それに対して臆していたり病んでいたりする訳ではなくて、なんというか、トランスフォームした感じがする。スーツと7センチヒールを脱いで、部屋着とすっぴんで過ごす今の自分は紛れもなく「わたし」になった、というごく感覚的な話。
たとえば、「好き」と「すき」はちょっと違うということ。
さつまいもが好き、ドラマが好き、ジャイアンツが好き、秋の気温が好き。江國香織さんがすき、お父さんがすき、「大好き」より「だいすき」のほうがすき。
なんだろう。何か、と誰か、の違いなのだろうか。受け取る側としてはどちらであったとしてもすらすら読めるのだけれど、自ら発信する側になるときには必ずといっていいほど今どちらを選ぶべきか都度悩む大問題だ。
ちいさな、は小さなよりももっとちいさくて
しずかな、は静かなが放つ緊張感を持たなくて
うつくしい、は美しいの幾分かまろやかな感じで
言い出せばキリがないけれど、わたしの中ではそうだからそう、としか言えないような頑固で確固たる感覚がある。
だから、逆だよ!違うよ!というひとがいたって全然構わない。わたし自身も理由のない感覚だもの、としか言えないことだから。
江國さんは、漢字とひらがなにも独特の選択眼を持っている。何を漢字にするか。どの部分をひらがなにするか。同じ言葉でも、あるときは漢字になっている。あるときはひらがなになっている。
文章の中での、言葉の力の入れ方を決めるために、江國さんは漢字とひらがなを選ぶにちがいない。この言葉ならば、必ず漢字。この言葉ならば、いつもひらがな。そういうふうに、自動的に書くのではなく、言葉ごとに立ち止まって、文章ごとにためつすがめつして、そして決めるにちがいない。
『すいかの匂い』 解説 / 川上弘美
川上弘美さんが綴られたこの解説の一文がため息モノで、言いたかったのはまさにこういうこと、という感じなのだけれど。
ちなみにこれを読みながら「ためつすがめつ」ってなあに、と思って調べたら
ためつすがめつ・・・「矯(た)める」は正しくする、まっすぐにするといった意味、「眇(すが)める」は瞳を片方へ寄せて見ること、したがって「矯めつ眇めつ」は「いろいろと角度を変えて、何かを丹念に見る様子」のこと
だそう。日本語ってほんとうに奥深い。
( ほんとうに、は本当に以上に感嘆が強い感じ。 )
だから、江國香織さんの真似事をしたいのではなくて、川上さんのお言葉を拝借するならば「自動的に書くのではなく、言葉ごとに立ち止まって」頭のなかにたっぷりと湧き出るもわもわたちを文字に置き換える作業のときに、なるべくそのまま出してあげたい、と自らに願う。
読んでくださる方に、ではなく、そう自らに。
・・・
気圧が急に下がって上がるものだから、そっちがその気ならばもう眠るしかない、と腹を括って堕落した数日間の反動でまったく眠くならない。
まったく、は全くと少しだけスピード感が違う。
そんなことばかりを考えては、もわもわがまたひとつ自分のなかでただしく温度をもった文字に変わってゆく満足感に息を吐き、暗いベットでゆっくりと朝を待っている。
薄闇がじわりと溶け始めてきた。
明るくなるのは、きっともうすこしだけ先。