noteドラマ 「りんごとオレンジ」②
chapter.2 「 信念 」
「吉井さん、阪神ファンだったの…………!」
「………ほぇ?」
タメにタメた六花の告白に、つい素っ頓狂な声が漏れてしまった。一体今この子は顔を真っ赤にしながら何の話をしているのだろう。それでも、とにかくまずは話の続き聞こうと思った。
「阪神ファン、ね……。うん、それがどうしたの?何か問題ある?」
「問題ある?どころの騒ぎじゃないんだよ!もうほんとにほんとに大問題だよ!」
「だって野球ファンなんでしょ?そりゃ贔屓の球団くらいあるでしょうよ。阪神ならダメなの?」
「別に阪神がダメって言ってる訳じゃないの……。それはもう仕方のないことなんだけど……。私ね、私というかもはやうちの家が先祖代々ね、
大の巨人ファンなの……………。」
消え入りそうな声でそう言った後、六花はすでにぬるくなっているであろう豆乳ラテを飲むと、どこか遠くを見つめては深いため息を吐いた。
「あ、筧(かけい)家って、そんなにも歴史ある巨人ファンだったんだね……。」
妙ちゃんの伺うような声が聴こえる。
「うん、筧の父方のおじいちゃんが結構熱狂的な巨人ファンでさ。そうなるとお父さんは物心ついた時から野球を観るっていうと自ずと巨人戦になるじゃない?そこからはもう筧家に巨人ファンが生まれる無限ループな訳よ。お兄ちゃんと私も物心つく前から巨人ファンの英才教育。小さい頃の写真は常にユニフォームとメガホン。応援歌だってザラに歌えるし、去年の阿部ちゃんのありがとう慎之介試合のドーム全体が震えた慎之介コールなんかもうほんっとに泣けたし…….(早口)」
「待って待って、ごめん最後の方ちょっとよく分からなかったけど。なんせ六花も実はめちゃくちゃ筋金入りの巨人ファンってことね?」
「そう、そうなの妙ちゃん。私もだし、お兄ちゃんもお父さんもおじいちゃんも。筧家はみーーんな巨人ファンなの!!」
「なるほどねぇ……。あたしぶっちゃけあんまり野球のこと知らないからうっすらの知識しかないんだけどさ、えっと吉井さんが応援してる阪神と、六花が応援してる巨人っていうのは、その、えっと、つまり……」
「うん、ズバリ、犬猿の仲だね。」
私はこうして一番口にしたくなかった事実を、妙ちゃんに伝えたのだった。
・・・
「人がそれ以外の言葉を探してるときに、あんた案外あっさり言い切ったね。」
「だって!だって本当にそうなんだもん……。もちろん全員が全員そうって訳じゃないよ?巨人ファンにも阪神も応援してるよって人もいる、かも知れないし、うん、多分、恐らく、だけど……。」
「めちゃくちゃいない感じ出てるじゃん!まぁ、野球に詳しくないあたしでも知ってるくらいだから、昔から有名な話ではあるよね。」
「そうなんだよ……。巨人って、アンチ巨人って言葉が蔓延るくらい巨人が嫌いな人が多いことで昔から有名なんだけど、なんというか阪神ってその中でも特別でさ。阪神と巨人の直接対決は伝統の一戦、って呼ばれてるんだよ。」
「あー、それはもうガチのやつなんだね。」
「そうなの。よくさ、飲みの席とかで政治と宗教と野球の話はするな、って言われてるじゃん?あれって要は信念の話だと私は思ってるんだよね。自分が何を信じるかなんて他人に迷惑をかけなければ本来自由だと思うんだけど、どうしてもそこを比較したり、優劣を付けたくなるのが人間の哀しい性っていうか。だからなるべく避けましょうね、って言われてきたんだと思うの。」
驚いた。と同時に懐かしさがこみ上げてきた。
そうだ、六花は時折熱の入ったプレゼンをしながらこういう顔をする子だった。
「……六花ってさ、普段はぼーっとしてて口数も少ない割に、一旦心開くと結構ガンガン喋るよね。高校の休み時間に、高橋先輩のカッコ良さをとにかく熱弁してる姿見て、よく分かんないけどこの子と仲良くなりたいなぁって思ったこと、今急に思い出したわ。」
「妙ちゃん……!そうだったの?っていうか、よく聴くと前半部分それ全然褒めてないし。」
「ごめんごめん。まぁでも確かにそうだよね。信念なんて人それぞれあるものだし、誰かが土足で踏み込んで押し付けたり否定したりしちゃいけない部分だもんね。」
「うん、ほんとに。だからね、私も今まで吉井さんにあえて聞いてなかったんだよね。野球好きならどこのファンですか?とか。自分と違う答えが出てくるのが怖かったっていうのもあってさ。」
「……確かに。本当のことって、確かめたいのに同じくらい怖くて聴けないよね。でも今あたしに話してくれたってことは、六花と吉井さんの間では既にこの話になった、ってことだよね?それはいつ頃だったの?」
「それが……吉井さんの誕生日くらいからほとんど一緒に住むようになって。で、その後自粛生活になったじゃない?同棲お試し的な感じでちょうどいいか、ってなってふたりで家にいる時間がもの凄く増えたの。だから今までしてこなかった話とか、テレビ見ながらするようになってきて。」
「あぁ、なんかそういうカップル世の中にめちゃくちゃ多そうだね。コロナ離婚、とかも言ってるくらいだもんね……。」
自分で言いながら無償に切なくなってしまう。
あれほど一緒にいる時間が欲しいと望んでいたはずなのに、いざそうなるとあたし達が上手くいかないのはどうしてなんだろう。
……駄目だ、今は六花の話。切り替えろ。
「一緒にいる時間が増加したことでもたらされるものってさ、残念だけどきっと幸せだけじゃないから難しいよね。……あれ、そういえば。妙ちゃん……景(けい)くんは?」
「だーーっあいつの話なんか今はいいの。そんなのはね、もう後回し!それで?テレビ見ながら話してて?」
「えぇっ。絶対景くんと何かあったでしょ。後で聞くからね!……えっと、あ、そうだ。今ってさ、その影響でちょうど野球もやってないじゃん。だけどついに6月19日に開幕が決まって、もう私すっごく嬉しくて。でね、そのニュース観ながら吉井さんの前で思わず言っちゃったのよ。あぁー!早く野球観たいなぁ!って……。」
「うわっ、そりゃまたかなりダイレクトに突っ込んだね。で、吉井さんはそれに対してなんて?」
「吉井さん……恭ちゃんはね……」
六花は苦虫を噛み潰したような顔をして、その日のことをゆっくりと話し始めた。
「あぁー!早く野球観たいなぁー!」
はっ、と思ったときには遅かった。しまった、今完全にこぼれ落ちた。駄目だ、言葉を戻せない。六花は途端に汗が止まらなかった。やっとの思いで隣に座りながら晩ご飯を食べている恭次(きょうじ)の顔をちらりと盗み見る。今日の献立は、恭ちゃんの好きなたこ焼き器で作る焼売だった。
「いやほんとだよな!俺もすげー楽しみ。ん、あれ?六花ってそんなに野球好きだったっけ?」
辛子と醤油をつけた焼売を頬張りながら恭ちゃんが振り向いた。……アウトだ。完全にスリーアウト。菅野がバシッと三者三振に抑えた音がする。完璧だ。まさか、と思ったけど世の中そんなに甘くはない。聴こえてますよね、そりゃ。こんなに近くに座ってるんだもんね。
「え、えーっと、へへっ。実は結構好きなんだよね。父親の影響もあったりして。」
まずはそうっと、そうっと。盗塁前みたいに、相手の様子をしっかり見て。ここで走りすぎてはいけない。牽制球で戻れなくなってしまう。
「あ、そうだったんだ。そういやあんまり野球の話とかしなかったもんな!六花めちゃくちゃスポーツ音痴だし、てっきり野球も全然興味ないのかと思ってたわ。」
「ちょっと、恭ちゃんそれすごい前にバドミントンしたときのことでしょ!いつまで言うの!」
「ははっ。だって俺、あれまじで衝撃だったんだもん。まさかサーブが始まらないことがあるなんて思ってなかった。くっっ、あはははっ」
恭次が思い出しては涙を浮かべるほど笑っているこの話は、悔しいけれど本当のことだ。付き合って間もない頃、ドライブデートがてら連れて行ってくれた広い公園で遊んだことがある。当時私はまだ恭次に運動音痴なことを伝えておらず、バドミントンすらまともに出来たことがないことをそのとき初めて告白した(むしろ見られて気づかれた)のだった。恭次はどうやらその話がお気に入りらしく、以来何かと私をからかってくるときに披露するネタのひとつになっている。
……にしても、ちょっと笑いすぎじゃない?
「もういいよ!どうせ私は運動音痴で、バドミントンすらまともに始められないもんね!」
あまりにケラケラ笑われるのでちょっとムキになると、恭次が困ったように機嫌を取ってきた。
「六花、ごめんって。六花、りっちゃん。悪かった、許して。あの姿めちゃくちゃ可愛くて気に入ってるんだよ、ほんとごめん。」
……コイツは本当にずるい男だ。どうすれば私の機嫌が良くなるかを完璧に知っている。
①いつもは酔ったときにしか呼ばない、りっちゃん呼び
②めちゃくちゃ可愛くて気に入ってる、というパワーワード
「もうっ。仕方ない、許す!」
……私は本当に簡単な女なのだ。いつも恭次の手のひらの上で転がされている気がする。しかも有難いことに何だか話が上手い具合に逸れてきた。よし、このまま何気ない話題に……
「あざす!ほんとにいつも優しいなぁ六花は。
え、それでさっきの野球の話なんだけどさ。お父さんの影響ってことは、結構小さい頃から野球観てたりしたの?」
…………嘘でしょ、今の流れで忘れてくれたと思ってたのに。やっぱりまた戻るのね、そこに。
でも、何となくこれが神様のくれたタイミングだという気がした。今日話さないと、いつまで経っても野球の話題を避けることになる。それじゃ駄目だ。敬遠を選ぶこともできるけれど、ちゃんと打席に立った相手と真っ向勝負したい!
よし、言ってみよう。ここはマウンドだ!!
「……うん、実は結構観てた。だから恭ちゃんも野球部で、しかも甲子園目指してたって聞いて、嬉しかったんだよね。共通の趣味っていうかさ。」
「なんだー、それなら早く言ってくれよー。俺、結構前からずっと六花と野球観に行ったりしたいなって思ってたんだよ!じゃぁコロナ落ち着いたらさ、これからは球場デートできるじゃん!」
「……そのことなんだけど、恭ちゃんに聞いておきたいことがあって。あのね、先に言っておくけど別に答え次第でどうこうなるとかはないからね。ただ、知っておきたいっていうだけの話で……」
「え、うん?何?いきなり改まって。」
「………あのさ、えーっと、恭ちゃんってさ。どこの球団のファン、とかあったりするn……」
「阪神!!俺、めちゃめちゃ阪神ファン!!」
さ、遮られた…………。質問の途中で言い終わる前に食い気味にこられた……。
そして、待って。
待って待って。
待って待って待って。
恭ちゃん、あなたやっぱり、
阪神ファンだったの………………!!!!!
・・・
実は、私は以前から恭次がもしかして阪神ファンではなかろうかということに、薄々気付いていたのだ。理由はいくつかある。
まずは、彼の生い立ち。彼のお父様は関西出身ということもあり、恭次はもともと3才くらいまで関西で育ってからお父様の仕事の都合で関東に引っ越してきたそうだ。だから関西弁は話さないが、関西にルーツがあったりするということ。
そして、彼の部屋。一緒に暮らし始めて気がついたのだが、ちょくちょく黄色のものを目にする。基本はモノトーンが好きな彼らしい落ち着いたインテリアが多いのだが、歯ブラシ、タオル、スポンジ、などという所謂消えものにやたらと黄色が目立つのだ。差し色かな、と思うようにしていたが気になればなるほど至る所で黄色が主張していたということ。
最後に、彼の癖。機嫌がいいとき、特に酔っぱらったとき。りっちゃんと呼ぶだけでなく、彼には必ずある癖が出始める。それが「六甲おろし」を鼻歌で歌うことだった。最初は酔ってることもあって音程が聞き取れず、鼻歌なんか歌っちゃってご機嫌なんだなくらいにしか思っていなかった。ところが、この自粛期間中彼も世間の流行に例に漏れず、リモート飲みによく参加するようになっていた。そこである日ピンときてしまったのだ。最近よく聴こえるこのメロディに、私はもしかしたらとても聞き覚えがあるんじゃないかということに。そう思い始めると、そうとしか聴こえなくなってきた。いや、絶対にそうだ。
嗚呼、もはや愛しの六甲おろし……。
嗚呼、何度聴いたか六甲おろし……。
といった訳で、ほぼ確信に近い点と点がひとつの線になったことを機に、彼を阪神ファンだと推測する私と、たまたま偶然が重なっただけだと否定する私が、心の中で以来ずっと拮抗していたのだった。
そして今、その拮抗が彼の決定的な一言で瞬く間に脆くも崩れ去っていった。
やっぱり……やっぱり恭ちゃんは………
阪神ファンだった………。
途方に暮れる私のことなど露知らず、さっきからずっと焼売を頬張っている恭次がにこにこと話しかけてきた。鉄板から出したばかりを口に入れるから熱そうで、でも美味しそうで、子供みたいな彼はとても可愛い。
「え、じゃぁ六花はさ、どこの球団のファンとかあるの?」
いよいよ、答えるときが来た。ぐっと拳を握りしめた。いくら大好きな相手だろうと、自分の信念に嘘はつけない。ここはマウンドだ。
「私はね、私の家族はね……先祖代々、めちゃめちゃ巨人ファンなの……!!」
「………ほぇ?」
続く