パンが食べられなくなった
今日、パンが食べられなくなった。
正式には、食べたのだけれど食べたあとすぐに気持ち悪くなってしまった。半日以上経つのに今もずっと胃がもたれて、何も食べられていない。
お米生活が続いてたから久しぶりに食べたい、と思って数ヶ月ぶりに口にしたパンだった。
でも、今の身体は受け付けなくなったらしい。
前はあれほど大好きだったのに。
パン屋さんで4個も5個も買ってたのに。
心が、すこしばかりしょんぼりしている。
そして、思う。
わたしには、「できない」ことがとても多い。
たとえば、飲酒。
父があさりの酒蒸しですら酔ってしまうほどアルコール耐性が全くないひとで、わたしにもアセトアルデヒドを分解する能力が備わらなかった。
ハタチを過ぎた頃は「お酒が飲める自分」のステータスが欲しくて周りの友人と同じように上機嫌で居酒屋にも行っていたけれど、やはり持って生まれた体質の差は大きい。毎回頭がカチ割れそうな帰り道のために数千円を払ったかと思うと、情けなかった。
たとえば、コーヒー。
大人になればコーヒーを飲めるようになるものだと思っていたけれど、どうやら無理らしい。どうしても「苦い」以上の感情に出会えない。
カフェオレは飲める。ソイラテもいける。それでもスタバでは、ほうじ茶ラテかチャイを頼む。ティーラテがいちばん好き。要は、ミルクティー。自分が好きなものを自由に飲めよ、というたったそれだけのことなのだけど、何だか大人になるスタンプラリーをひとつ押せなかった気がして。
たとえば、映画館。
映画館の居心地が悪い。見知らぬ人に囲まれること、事前に座席は選べるシステムにも関わらず前後左右の人を見てから選べないこと、その後座席を変えることが基本的にできないこと、ポップコーンを食べたい人と何も食べたくない人のエリアが同じなこと、音量が大きすぎると感じてもリモコンで下げられないこと。
書いておきながら神経質すぎて哀しくなったが、すべて事実。総じて、わたしは映画館という空間にすこぶる向いていない。それでも面白そうな映画はどんどん公開する。毎月WOWOWの新作情報をチェックして、半年以上経ってから“話題だった”映画をひっそりと愉しむ他にない。
たとえば、運転。
免許を持っていない。免許を取るのはやめたほうがいい、といろんな人から諭された。わたしはどうやら物と自分との距離感を掴むのが非常に苦手らしく、球技という球技がまるで出来ない。離れたところに立っている相手が何センチ先にいるかなんて皆目見当がつかない。
なので自転車も苦手。一応漕げるは漕げるけれど、道を曲がったり止まったり段差を乗り越えたりするのがほんとうに下手くそだなぁと、20数年乗っているはずなのに自分でも笑えてしまう。進歩ゼロ。だからよくコケるし、よくぶつかる。親しい皆様方から車の運転なんて夢のまた夢だよ、と言われても仕方ないのだろう。
・・・
だからなんだ、という話。
お酒が飲めないなら無理して飲まなくていいし、
コーヒーが駄目なら紅茶にすればいいし、
映画館に行けないなら家で観ればいいし、
運転が出来ないなら電車やバスに乗ればいい。
たぶん、わたしは「できない」烙印を押されている自分が嫌なんだろう。
昔から、なんでもできる、がいつも褒められる常套句だった。
生徒会長、学級委員、バレエの主役、両家初孫の長女。
完璧にこなすことは、100ではなく0だ。
そこに立ててないとまず始まらない、とすら思ってずっと生きてきた。
大人になればなるほど、
何かができない自分が増えた。
自分よりもできる周り、が圧倒的に増えた。
その双方をひとつずつ認めていくことは、プライドや自信を影踏みのように潰してゆくことで。
「できる」にちゃんと目を向けてこなかったと気付けたのは、ごく最近だったなと思う。
できなくてもいいよ、
そんなのどうにだってできるよ、
そう言ってあげたいのだけど、まだまだわたしは「できない」を認めてあげるマンとしてピヨピヨの初心者で、不慣れで、だからこうして新たな「できない」に出逢うと未だにどうしても心がしょんぼりしてしまうのだ。
でも、いつかはまた、パンを美味しく食べられるかも知れない。その時片手には、ブラックコーヒーが置かれているかも知れない。10年後、嘘みたいにぶいぶい(?)運転してるかも知れない。
そんな未知の自分の姿を想像してみると、人生まだまだこれからなのだからできないことが沢山あるほうが面白いかも、と思えてきたりして。
それまでは、今こうして手に握りしめている「できる」ことをひとつずつたいせつに。
だから、明日は素直に雑炊を食べる。
胃をそっと撫でながら、そう決意して眠る夜。