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noteドラマ 「りんごとオレンジ」⑤


chapter.5 「 溢れた、剥がれた 」



「………犬かキャットか、なんて誰が決めたのよ。
犬かキャットかで死ぬまで喧嘩する前に、まずは飼うか、飼わないか、から喧嘩しなさいよ!!」


なんて情けないんだろう。
だけど、ずっと堪えていた気持ちを一度口に出してしまったら、もうそこからは止まらなかった。

「………えっと、妙さん……?」
「知ってるわよ、景が犬好きだってこと。ずっと気づいてた。だからあたしは余計に言い出せなかったの!あたしはね、犬派でも猫派でもない。どうしても動物が得意じゃないの。だけどこんなこと言ったら犬好きな景は嫌がるだろうし、あたしも見るだけなら別に犬も猫も普通に可愛いと思うし、だから今まで黙ってたの。
だけど、飼うとなると話は別。あたしは絶対に動物を飼わない、飼いたくない!」
「そっ………か……」
「今まで言わなかったあたしも悪いけど。そんなに犬犬犬って言われたら何も言えなくなるじゃない。何の犬種がいいかな、ってなによ。それ以前にね、飼う前提で勝手に話進めないで!」
「…ごめん………」


ああ、心が剥がれてゆく音がする。シャキン、シャキンと、小刻みに。辛辣な言葉を発するたびに、こんなこと本当は言いたくないともう一人のあたしが嘆いている。だけど、それは景に聴こえることはない。届いているのは、あたしから投げられたトゲまみれの言葉だけだ。


・・・


ずっと、こうだった。いつもいつもギリギリまで溜めて溜めて溜め込んで、表面張力いっぱいまで自分は平気だと思い込んでしまう。昔からあたし達を育てる為に朝から晩まで仕事をする母親の姿を見ていると、あたしの悩みなんてちっぽけなことだと思い続けていた。それよりも、やるべきことが山程あった。チビ達にご飯を食べさせて、掃除をして、縫い物をして。そうすると、さっきまでの悩みはいつしか忙しさの中に溶け込んで、知らぬ間に消えてゆくものだと思っていたのだ。


だけど景に出逢ってから、あたしの表面張力はいつしか緩んでしまったのだ。汚れのない、優しさばかりの真っ直ぐな景。
「妙さんはほんとにいつもサバサバしててかっこいい。俺そういうとこが好きなんだよなー。」
なんて、いつも好き放題なあたしの言葉をなんでも受け止めてくれた。

だから、どうしても言えなかった。
あれが食べたい、これはいらない。その色は変だ、こっちがいい。小さなことなら幾らだって言えた。これくらいなら景は笑って許してくれると、いつもどこかで思っていた。
でも、この決定的な価値観の違いだけは。景とあたしの間にとてつもなく大きな溝を作ってしまうと知っていたから、言いたくなかった。言い出せなかった。

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沈黙が、画面を越えてふたりの間に静かに流れている。

「妙さんはさ、」
景が何かを言い出そうとしている。だめだ、怖くてその続きが聴けない。
「っごめん、そういうことだから。疲れたからもう切る。おやすみ。」
「え?妙さん、ちょっ……」

無理矢理、回線を切ってしまった。すぐに景からまた連絡がきたけれど、無視を決め込んだ。
「……リモートって、こういうとき楽だわ。」
部屋でひとり、そっと笑った。今までもこういう喧嘩が度々あったとき、景はいつも大体次の日にはビールを持ってあたしの部屋までやってきた。仲直りの乾杯、と先に折れてくれた。明らかにあたしが悪いときだけは、あたしが景の部屋に行った。ビールを持って、仲直りの乾杯をしに。
今は、それが出来ない。世間でみんなが守らなければならない物理的な距離があることが、今だけはとても有り難かった。


こういうときには不思議なもので、好循環というべきか悪循環というべきか、タイミングが重なってゆくものだ。
景に言いたいことだけ言い残してから間も無くして世の中の自粛ムードが徐々に解除されていった。ということはあたしのネイルサロンも景の美容室も含めた、美容業界の仕事も始まるわけで。
今まで予約が取れなかったお客様が雪崩れ込んで、制限された予約枠が毎日ピークになる状態が続いていた。だけど、やるべきことが山程あることはいい。やはり悩みなんていつしか忙しさの中に溶け込んで、知らぬ間に消えてゆくものだ。
そう、信じ込んでいたのに。


・・・


1週間ぶりに休みが取れて、あたしは美容室にいた。美容師時代の知人がいるそこは、初めて訪れるお店だった。今日はこれから、自粛が明けてやっと六花と会える予定だ。その前に伸びっぱなしになってしまったこの髪をどうにかしたかった。
「ほんとに、切るけど?」
あたしの様子を伺いながら、久々に会ったその人はハサミを握りながら躊躇っていた。
「はい、いっちゃってください。」
雑誌をめくりながら敢えてしれっと伝える。なんて事ないことだ、と自分に言い聞かせるように。
耳元で小刻みに音が聞こえる。いつもと同じ、心が剥がれてゆく音が。

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1時間後、鏡の前にいるのは知らないひとみたいだった。その姿をぼうっと眺めながら、剥がれた分だけあたしのくすんだ心が浄化されてたらいいのに、と思った。
お店を出て、六花との待ち合わせ場所へと足早に向かう。途中でショーウィンドウに映る自分の姿は、見ないようにする。

「妙ちゃーん久々ー!!元気だった?ていうか、髪!びっくりしたーー。妙ちゃん美人さんだからやっぱり短いのも似合うね!」
会って早々、一息に喋る六花。相変わらず小動物みたいでとても可愛い。
「ありがと。気分転換に切っちゃった。さ、買い物しよ!今日は夏服買うって決めてるんだ!」
そう言って歩き出したあたしを見て、六花は何か言いたげな顔をしながらもひょこひょこと隣をついてきてくれた。

よく買うお店で見かけた、麻素材のワンピース。
涼しげで夏らしくていいな、と思った。鏡の前でしばし逡巡する。
試着されますか?という店員さんの言葉にどうしようかまだ迷っていると
「いいじゃん!試着してきなよー。私その辺ぶらぶらしてるから、ね。」
と言って六花が促してくれた。この子はいつもあたしの背中を押すタイミングが上手い。

試着スペースに入り、服を脱ぐ。ワンピースを着て、ファスナーを上げる。顎のラインに切り揃えた短い髪のあたしがいる。いかがですかー?とカーテンの向こうから聴こえる店員さんの声に適当に答える。似合っているのか、似合っていないのか、なんだかよく分からない。今ワンピースを着て立っている髪の短い女は、一体誰だろう。恐る恐るそうっと手で髪を一束持って梳いてみる。程なくして、パサっと揺れ落ちる。もう一度髪を持ち上げる。すぐに揺れ落ちる。


……あぁ、本当に無くなってしまった。本当に切ってしまった。その瞬間、初めてそう認識した。髪を切っている最中も、シャンプーをしている間も、ドライヤーで早く乾いたときにも、実感が湧かないままだったのに。途端に涙が溢れそうになるけれど、上を向いて必死に堪えた。何度も髪を梳いたせいで、静電気が立ってしまった。
このワンピースを買おう、と決めた。せっかく可愛い服なのに、この苦い気持ちだけを閉じ込めて終わらせないように。次はちゃんと、笑って着られるように。


・・・


そこからカフェでお茶しながら六花の話を聞いて、早々にその日は解散した。それどころじゃなさそうだったし、六花と吉井さんの話を聞いて、あたしももう少しひとりで考えなければいけないと思った。
ふたりの大きな価値観の違いに対して、ちゃんと自らの意思でボールを投げた六花はとても眩しく見えた。あたしは意思などという綺麗な言葉でボールを投げた訳じゃない。ただただ溢れて、剥がれた。そのカケラを無意識に不躾に、投げつけただけだ。景に伝わるように、なんていう思いやりは微塵もなかったことを、今になってとても後悔していた。ちゃんと謝りたかった。なのに、自ら閉ざしたその道を開ける勇気が、どうしても持てなかったのだ。
それに……と口の中で言い澱む。それに、切ってしまった。もう元に戻せない。前から約束していたのに。あんなにも楽しみにしてくれていたのに。

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「ねぇねぇ、妙さん。妙さんってさぁ、今までずーっとロングなの?俺、髪長い妙さんしか見たことないなぁって!」
「あー、景と出会ってからはそうね。中学生の時までは部活してたから髪短かったんだけど、高校入って辞めたからそう言われてみればそこからずっと伸ばしてるわ。」
「そうなんだ!うわーなんかロングじゃない妙さんって想像できないなぁ〜〜。」
「失礼ね、どうせ似合わないって言いたいの。」
「違うじゃん、妙さんは綺麗だから絶対短いのもかっこいいよ!ロングも勿論好きだけどね!」
「……あんたって本当根っからの人ったらしというか、なんというか。美容師が天職ね、ほんと。」
「あーーお世辞だと思ってるでしょ!俺いつも本当のこと言ってるのに!

……ねぇ、妙さん。もしもさ、この先妙さんが思い切って髪の毛短くしたいなって思うことがあったときはさ、そのときは俺に切らせてね。女の人がばっさり切るときって絶対ちょっと勇気いるじゃん。だから、そのときは俺が妙さんに勇気分けてあげたいんだよね!」


そう笑って言ってくれた景の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
あのとき、あたしは強いからそんな勇気なんていらないわよ、と軽くあしらったんだっけ。

雑誌を握る手はあんなに汗びっしょりだった。いつもより近くで聴こえるハサミの音が怖くて堪らなかった。
………馬鹿だなぁ、景の言った通りだった。


何度髪を持って梳いてみても、すぐに揺れ落ちてしまう。もう決して元には戻せない。
あんなにも、楽しみにしてくれていたのに。



                    続く

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左頬にほくろ
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