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知識も経験もないころにあった”純粋な思い”を思い出そう。

こんにちは、愛弓です。

セラピストになったころの私は『自分には知識も技術も経験も、何もない』と感じてた。

だから、たくさんの大人からいろんなことを素直に『教わりたい』と思った。

『あれは何だろう?』と思ったことを聞いたり、『これをやったら、どうなるだろう?』と思ったことを試したり、『やってみたいな』と思うことに気軽にチャレンジできた。


たまに、『やりたいな』と思うことを、私のためを思って止めてくれる人がいて。なんだか心の中で燃えていた炎が消えてしまうような気がする瞬間もあった。

でも、『そうなんだな~』『この人が言うんだから、きっとそうなんだろう』『この人が経験してきたんだから…』と思って、心の火が消えても、気づかないふりをした。

いつの間にか抑え込まれていた気持ちが爆発して、私は自己流で、”自分の理想のセラピスト”になることにした。

”理想のセラピスト”の正体もわからずに、ただ『これをやったらどうだろう?』『あれを試してみたら、効果あるかな?』といろんなものを試して、いつのまにか”自分の形”ができてきた。


”自分の形”ができて、それを『正しい』と信じれば信じるほど、『間違ってる』ことが許せなくなる瞬間があって。

そんな自分が嫌だから、受け入れる癖がついた。

間違ってることを「間違ってる」と言わず、『いつか自分で気付くだろうから…』と心の中で、気にしないふりをした。

それは、自分の信じるものを主張しないことだった。


いくら人が幸せになっていく姿を見れても、彼女たちは私のやってることに気づかない。

感謝することもなく、『愛弓さんは、何もしてくれなかった』と思い込んで、なかったことにする。

感謝されたいわけじゃない。

それでも、私のやってることや心遣いに気づかないどころか、嫌な感情をぶつけられることが増えると、心の中がもやっとする。

「私すごいでしょ~!?」ってされてると、もやっとする。


『それ、私が教えたことじゃん!』『それ、私のおかげじゃないの!?』って、心の中に毒がたまる。

私がやってることに、気づいてほしい。


『自分で考えてる』と思い込んだまま依存してくる人たちがいて、彼女たちと話してると、私はすごく消耗した。

【誰かの心に寄り添って、心の中にあるものを引き出してあげる】という作業は、相手にとっては心地よいかもしれない。

だけど、相手との距離が近くなりすぎるほど、私にとっては命がけだった。

誰かに溶け込むということは、自分を見失う可能性を伴うことなんだと思う。


それなのに、「僕はこんなに頑張ってるのに、君は何もしてくれない」と言って怒る人や、私の考えや感覚を強く否定してくる人もいて、私の中で何かが爆発した。


『自分の考えや感覚を表現できる環境を作らなきゃいけない!』と思って、ブログを書くことにした。

でも私には、『セラピストだった頃の経験と知識を伝えなきゃい』みたいな変な使命感があって、それを守るために、自分の『やってみたい』と思うことに簡単にチャレンジすることができなかった。

『ただのブロガーになんてなりたくない。私はセラピストだ。』


『誰よりも、知ってる』みたいな強いこだわりがたくさんあって、動けなくなった。

私は、”私のやってること”を認めさせたかったのかもしれない。


※※

私はきっと、重たい荷物をたくさん抱え込みすぎて、新しい世界に飛び出せなくなってる。

その荷物は、確かに大切かもしれない。

その荷物を持っていなかった私と、その荷物を手にしてからの私は、全く違う。

『この荷物を持ったまま、新しい世界に飛び込めたらどれほどいいだろう』と思う。


でも、その荷物が重すぎて、新しい世界に飛び出せなくなっているのなら。

その荷物を手放して、”今の自分”のまま新しい世界に飛び込んでみるのもいいかもしれない。

その荷物を手放したところで、本当に大切なものは全部、私の中にあるのだから。




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