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日常に潜む『心の暴力』は、気付きにくく、理解されにくい。
今から私は、変なことを言うかもしれない。もしかしたら、誰かを傷つけるようなことを言ってしまうかもしれない。実際に被害にあっている人の気持ちを考えないような、無責任なことを言ってしまうかもしれない。
それでも私は、自分の感じたことをここに表現しようと思った。
決して、誰かを傷つけたい訳じゃない。
だけど、もしも誰かを傷つけたり、『無責任だ』と怒らせてしまったら、ごめんなさい。
ここに書くことを決めた私には、傷つける人に謝ること以外、何もできない。
※※※
虐待やDVのテーマを取り扱っているモノを見た時、心のどこかで『いいな~』と感じる瞬間がある。
実際に被害を受けていた人の話を聞いた時も、加害者に対して嫌な感情になり、被害者を助けたいと感じるのと同時に、心のどこかでは『いいな~』と思っているのかもしれない。
誤解されたくないのは、私は暴力的なモノは好きじゃないし、実際に被害を受けたいとも思わない。
それでも『いいな~』と心のどこかで思うのは、形があるからだ。
辛いことだとは思うけれど、”暴力”という形があるだけで「私は被害者です」と主張できる。
周囲の人が心配してくれて、自分の心に向き合うことができる。
誰かの声を聞いて、『悪いのは自分じゃない』と思うことも、『相手の心の問題だ。人間性だ』と気づくこともできるのかもしれない。
そして、『自分は同じことをしないようにしよう』と心に誓いやすい。
そんな側面もあると思う。
※※
私の家では、父が心の暴力をふるっていたように思う。
家の中では、人を傷つけるような言葉を発し、態度や空気感でも人を攻撃する。だけど、少しでも優しい瞬間があったり、『君のことを思いやっているよ』みたいな言葉があると、自分が傷ついたのが、父の問題なのか、自分の問題なのかも判らなくなる。
誰かに話したところで、どこからが心の暴力で、どこまでが優しさなのかはわからない。
『自分が心の暴力を受けている』なんて感じにくいし、誰かに相談することも難しい。
ましてや、母が絶えているのを見て育てば、それが普通だと思い込む。
社会に出たところで、自分と人の境界線は解りにくくなるし、自分が傷ついても、誰かの問題か自分の問題化を判断することは難しくなる。
そしてもし、自分の心が満たされることなく育てば、父と同じように、無意識に、誰かに心の暴力をふるってしまうかもしれない。
自分の心を抑え込むほどに、限界がやってきて、誰かに心の暴力をふるって、孤立していくかもしれない。
悪循環になるかもしれない。
ここで難しいと思うのは、父が根っからの”悪者”にはならないことだ。
家の外ではいい顔をしているから、”優しい人”というイメージがあり、親戚の中でも気づいてもらえない。
時には、家族ですら気づいていない。
父の違和感に気づいて、それを伝えようとすれば、私は”父の悪口を言う悪者”や”悪い側面ばかり見るネガティブ人間”のような扱いを受けてしまう。
彼は、幼いころからたくさん傷ついて、愛情をしっかりと受けていないんじゃないかと思う。
そんな満たされない思いから、自分の心を守ることに必死で、誰かから、自分を守ることに必死で、抑えきれなくなった感情が家の中で爆発してるのかもしれない。
家族の中だけが、唯一、自分の心を発散できる場所なんだと思う。
そんなことを考えると、彼はただの”悪者”ではなく、”かわいそうな大人”なんだ。
子供の頃からずっと、『父はかわいそうな人だ』と感じてた。
『だから、仕方がない』と諦めていた。
そんな諦めだらけなのが、私の家族かもしれない。
母も限界になっていた頃、『私に酷い言葉を浴びせたな』と思う。
だけど、彼女もそんなことを覚えてはいない。
きっと、母も父の言葉や態度で攻撃されて、たくさんの制限を受けて、限界だったんだ。
だから、誰かにぶつけたくて、私がちょうど”怒る理由”を作っていたんだと思う。
父も母も、私を傷つけたいとは思っていないし、大切に思ってくれていると思う。
だけど、自分の心の状況で、簡単に傷つけて、子供の可能性まで奪おうとした。かわいそうだなと思う。
そして、こういった心の暴力は、私の家が特別なわけじゃないと思う。
どこの家庭にも、少しはあったりするし、それにさえ気づかず、身体や心に影響を受けている人は多い。お客様に触れながら、そんなこともかんじていた。
それに、家族だけじゃない。
会社や学校、道端・・・いたるところで言葉や態度による暴力、心の暴力はあると思う。
「お前は繊細に考えすぎだ」と言われれば、そうかもしれない。
だけど、鈍感になり過ぎて、自分が苦しんでいる事にも、制限されている事にも、傷ついている事にも気づけなくなるより、全然ましだと思う。
鈍感になりすぎて、大切な人を傷つけている事にも気づけないよりはいいと思う。
私は、自分が傷ついていた事にも気づいてなかった。
ただ、自分でも気づかないうちにたくさん傷ついた。
だから、誰かよりほんの少しだけ、人の心に少し敏感だった。
幼い頃は、誰かを傷つけることに怯えていた。
それでも、いつのまにか傷つけることがあって、それに気づくたびに、自分を責めていた。
『私が自由に話すことは、自分の思いや感覚を表現することは、誰かを傷つけるんだ』と思い、怯えてた。
そして、人の心や自分の心についてたくさん考えた。
自分の感情を知ろうとした。
見てもいない、誰かの心の声をたくさん想像した。
人の心に敏感だったから、たくさんの人が支えてくれたし、優しくしてくれたんだと思う。
そして、『やってみたい』と思うことを叶えながら、たくさんの経験をさせてもらえたんだと思う。
人の相談にのるようになった私は、『これを仕事にしたい』と感じたけど、心理学を学んだり、カウンセラーになる選択をしなかった。
私には、”私の感覚”があったから。
私はセラピストになってら、彼かの心や体を感じることで、自分の心や体に気づいていった。
私の中で当たり前になって、『仕方がない』と諦めていた、心の暴力に気づくためだったのかもしれない。
そして、同じことを繰り返さなくていいようにたくさんの愛情を受けて、たくさんの人の大切にされてきたのかもしれない。
私は今、幼いころからの自分が置かれた状況に気づき、自分だけの問題じゃないことを知っている。
私が一人で解決できる問題でなければ、1人で解決すべき問題だとは思っていない。
『そのままでいい』と受け入れている家族に、できる事はない。少なくとも、今の私には。
今ある自分の家族を助けることよりも、同じように悩んでいて、違和感を感じてる人に、ちゃんと伝えてあげることの方が大切だと思う。
それ以上に、私は、自分自身が、そういった心の暴力にありふれた場所を離れ、もっと、もっと自由に生きることのできる場所に行った方がいいと思う。
自分の心を守るために誰かを傷つけなきゃいけない場所ではなく、大切な人のことを素直に応援できる場所に。
自分の受けた愛情を誰かにも届け、幸せを感じることのできる場所に。
私が自分の感覚を表現していたいのは、そういう意味もある。
私は、自分の人生を通じて、セラピストという生き方や仕事を通じて、たくさんの経験をさせてもらったし、たくさんのことを教えてもらったなと思う。