「弱者」という言葉の冷たさについて
新聞やテレビで「弱者」という言葉を見ると、ドキリとします。
大抵は「支援」とか「配慮」といった文脈で、困っている人を支えようという主旨なのは理解しているし、それは大切なことだとも思います。でも、発する人にその意図はなかったとしても、そこには困っている人達を「弱者」と言う立場に固定化し、支える人(発言者)と明確に区別するような冷たさがあると感じてしまうのです。
高齢者や障がい者は「弱い」のか
誰しも歳をとれば、みんな体は若い頃のようには動かなくなるし、耳も遠くなるでしょう。日常生活を送る上では、サポートが必要な場面もあるだろうと想像します。でも彼らの経験値って30年そこらしか生きてない私よりめちゃくちゃ高いですよね!?
障がいのある人だって、「健常者」と言われる人達を中心にマチが出来ているから不便だと思わせてしまうけど、それぞれがその人にしか出来ない体験をしていて、他の人では気付かなかった視点やものの考え方がある。
ドラマ「ビューティフルライフ」(ちょっと古いですが)で、車いすで生活する常盤貴子演じるヒロインに木村拓哉が「100cmから見る世界ってどう見えるんだろうなと思って」と言ってしゃがみ込むシーンがありました。
最終回では、常盤貴子が「100cmから見る世界はとても綺麗だったよ」と返す。まさにこれだなと。私には気づかない大事な視点がそこにはあって、その視点が反映されることが社会の中で巡り巡って、いつか私を助けてくれるかもしれない訳です。
つまり何が言いたいかというと、
「弱い」っていうのは、世の中がそうさせてる、もしくはそう決めつけてるだけなんじゃないですか?
ということです。もちろん、手助けが必要な時はお互いに支え合うことは大切です。でもそれは「弱者」だから助けて「あげる」んじゃなくてお互い様で、助ける時もあれば助けて貰う時もある、ということでいいのではないでしょうか。
「弱者」という言葉には、障がいのある人や高齢者、子供やマイノリティーの人たちを「弱い」という立場に押し込めて、無意識に見下している感じがして、とても違和感があります。
みんな「弱者」になりうる
そもそもな話、自分が「弱者」って言われたら、嫌じゃないですか?
当事者が自ら言うこともあるのかもしれないけど、「弱者」という言葉を発する人は、自分はそうでない立場にいることが多いと思います。
その人は、自分が明日、「弱者」になるかもしれないことをどれだけ想像しているでしょうか。明日、事故や病気で車いすを使うことになるかもしれない。歳をとったら寝たきりになるかもしれない。海外に旅行に行ったら日本人はマイノリティーだし、IT時代にITを使えないと「弱者」と言われる。つまり、「弱者」となりうる人は環境や自分の状況によって入れ替わって、時に自分がそこに当てはまることもある。
私がそう感じるようになったのは、思いがけず東日本大震災の「被災者」になった時でした。自分がある日突然、「弱者」として見られるって不思議な感覚です。「可哀想にね」「頑張るんだよ!」という励ましもたくさん貰いましたが、1番嬉しかったのは、普段通りに接してくれて、困った時には何も言わずに手伝ってくれた友人でした。
前者と後者の違いを考えると、自分と困っている人の間に立場の線引きをせずに、自分事として考えてくれたか、なのかなと思います。
助けて貰ってるのに文句言うな、と思うでしょうか。もちろん、ふんぞり返って助けてもらうつもりは無いし、支えてくれた人達にとても感謝しています。また、この経験がなければ、私も同じように思っていたでしょう。
でも、その考え方自体が「助けてあげてるのに(自分は助けてもらう立場になることは無いはずだ)」という奢りだったと、今は思います。自分だって状況が変われば「助けを必要とする人」になり得る。そう考えられるかどうかで、世の中的に「弱者」と呼ばれる人に対する態度も言葉も、手助けの仕方も大きく変わるのだと思います。
自分のために、想像力を持とう
偉そうにくどくどと書いてきましたが、私は善人にも聖人にもなれません。むしろ、自分がいつか助けてもらうかもしれないから、そうなった時に困らないように他人にも優しくしようという利己的な人間だということです。
いろんな立場にいる人達の気持ちを全部汲めている訳でも無いし、「弱者」という言葉は使わないようにしているけど、他の無意識な言葉で誰かを傷つけていることもたくさんあるでしょう。それでも、せめて「相手の立場を想像する」ことだけは忘れないようにしたいと思います。
繰り返しになるけど、それは他人のためではなく、自分のため。「情けは人の為ならず」とはよく言ったものです。でも、そう思うだけで、気負わずに、無理せずに、人に優しくできそうな気がするのです。
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