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『頑張る』は『生存戦略』
今日、研究室を1ヶ月休みたいという相談を先生として、了承をいただいた。
(決して研究が嫌いなのではない。)
結論からいうと、
嫌なこと(ここでは人間関係)に、正面から向き合うのではなく、
かわしてみよう。逃げようという選択をした
という話です。
こんなタイミングなので、
本稿は、色々な本音を書きたい。
前回の投稿に、ストレスが腹痛として現れるようになったと書いた。
↓前回の投稿です。
昔話になるが、高校の部活でも、
たくさんのケガをした。特に、足は、
疲労骨折寸前だった。
とはいえ、正直な話、心や身体には
『休みたい』ということしかなかったのではないかと今では思う。
要は、休む理由を作っていたのではないか
ということだ。別の言い方をすると、怪我や痛みを身体が表すことにより、自分を止めようとしていたのではないかと思う。
それに気づいて、一旦立ち止まろうと思った。それで、先生に相談しに行った。
ここで思ったのは、
改めて『頑張る』とはどういうことか?
ということだった。
『頑張る』ことで、
当然、社会に貢献できるチャンスは増える。
アウトプットの量も増える。たとえ、それが結果として現れなくても、その姿は『信頼できる』、『努力できる』人だというレッテルをもたらしてくれる。
そして、そうなると社会との結びつきが少し太くなるような実感がぼくはする。
言い換えると、社会から切り離される確率が小さくなるように感じるということ。
このことは、僕という人間が、社会で生きていく上で有効だったのではないかと思う。
すなわち、タイトルにもあるように、
『頑張る』という『生存戦略』を自分がとっていたのかもしれないと思った。
その戦略をとり、うまく切り抜けられるのなら良いのかもしれないが、
度がすぎると、僕のように腹痛や怪我として身体が表現するようになってしまう可能性がある。
この境目は、きっと、自分という人間の、
『社会的価値』と『存在そのものの価値』とのバランスが崩れているときだと思う。
良い結果は、自分(身体)より重要。
一見、当たり前のようで、当たり前じゃないかもしれない。
自分が生み出すアウトプットが、自分(身体)より大事なことって本当にあるんだろうか。
金の卵とそれを産むガチョウ。
どちらが、重要なのだろう。
どちらが、資本なのだろう。
頭ではわかる、でも、身体ではなかなかわからない。そして、それを言ったところで、
丈夫な人たちに、『それじゃ社会では生きていけない』と言われるのだろうか。
んー。
正直、僕は、この競争社会で生きていくことに疲れたし、このレールから降りたいと思っている。
誰かと比較するのではなく、自分として、
自分のペースで歩いていきたい。
すいません。かっこつけました。笑
そんなかっこいいものではなく、
僕にはそれしかできないのだと思います。
『頑張る』という『生存戦略』ではなく、
『頑張らずともできる』ことや、『楽しくてついやってしまう』ことに敏感になって、道を選んでいけたらと思う。
(当然、その道でも『頑張らなければならない』シーンはあると思うが)
きっと、それが本当の意味で、
自分に合った道なのかもしれないとも思う。
↓ 過去に『頑張る』ことに関して考えた投稿です。