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【いまさらレビュー】映画:ひそひそ星(2016年、日本)

たまたまアマプラで見つけた映画『ひそひそ星』がなかなかの佳作だったので、備忘録がてら紹介しようと思います。
第40回トロント国際映画祭最優秀アジア映画賞受賞作。英語のタイトルはThe Whispering Star。作品については考えるところが多すぎて、思いがあちこちに飛び散らかしてしまいますが、なるだけ簡潔にまとめたいと思います。

おはなし

※写真はイメージ。映画とは関係ありません

ストーリーはあってないようなもの。ただ、背景の設定はある。それでも序盤に流れるテロップとモノローグで語られるのみだ。後は静かにゆっくりと時が積み重ねられる。

時は人類が失敗を繰り返した後の未来。主人公は鈴木洋子、乾電池で動くアンドロイド。宅配便の配達員。昭和型宇宙船で荷物を届けるのが役目だ。荷物を届ける相手は、数を減らしもはや絶滅危惧種となった地球人である。

設定では届け先が某惑星(〇〇星、△△星…)となっているが。実は震災後の福島である。浪江町、富岡町、南相馬市、撮影当時は震災の影響が色濃く残り、ゴーストタウンに近い風景だった。

移動中の洋子は掃除をし、お茶を淹れ、洗濯し、乾電池を交換し、タバコを吸い、くしゃみをし、録音を聴く。淡々と過ぎる日常がモノクローム映像で描かれる。そして、ひとつひとつ淡々と荷物が届けられる。「心臓のときめきのようなもの」とともに。映画終盤、荷物を手にした受け取り主は、泣き崩れる。洋子にも波動が伝わる。

監督は園子温、シオンプロダクションの第一回制作作品でもある。主人公・鈴木洋子役は神楽坂恵。撮影は2014年に行われた。(※映画ひそひそ星公式サイト)

サイエンスではないSF

※写真はイメージ。映画とは関係ありません

宇宙船でしょ?未来の話でしょ? こんな要素だけでSFと思ってはいけない。異星人との劇的な邂逅・衝突やロマン溢れる冒険はゼロ。ついでに量子力学、ナノテク、VRも関わりがない。サイエンス的なテーマやアプローチはない。あくまでs=speculativeと理解しよう。

象徴かメタファーか

宅配便をだれが依頼したのかは不明。荷物の中身は写真のフイルムの断片、煙草の吸いさし、使いかけの鉛筆など。それらが遠く離れた受取人に届けられる。記憶・時間の象徴か、それとも切なく甘美な思い出のメタファーか。

思い起こしたいのはスタニスワフ・レム『ソラリス』。レムはソラリスの中で、異星の海を知的生命と想像した。海との接触により、人間は想像を超えた体験をする。人は心の奥底にある封印された記憶を鼻先にどうだと突きつけられる。自分だけの忘れたい記憶が、形となって現れる。他者とはなにか、自分とはなにか、そして記憶とは…テーマは広がっていく。

一方、『ひそひそ星』では、受取人の多くが「ありがとう」と言って荷物を受け取る。洋子から見れば取るに足らない中身だが、受取人にとっての荷物は、懐かしい記憶との再会であることを示唆しているように感じられる。タイムカプセルのような自分宛てのメッセージ。

AIとの対話とは

洋子と宇宙船のコンピューターきかい6・7・マーMとの対話は、そのままAIと人とのコミュニケーションである。無用に進路変更を繰り返すコンピューター。受け流しつつ冷静に評価する洋子。洋子のくしゃみを心配するコンピューター。タコ足状のコンセントを抜きまくる洋子。果たして両者のコミュニケーションは成り立っているのか。

ここでもやはりS.キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に登場するHAL9000を思い出そう。HALは人間の企てを察知すると、先回りして反乱を起こす。人間はHALのそんな自己防衛策をかいくぐり、HALの記憶ユニットをひとつずつ外していく。HALは「怖いよデイブ」とうそぶく。

洋子とコンピューターは“再起動”の結果、仲直りをする。とはいっても、関係性は対等ではない。おかしなマネするといつでもコンセント抜くぞ的な威圧感すら感じられる。現実の人間とAIも、それくらいの距離感にとどめておいたほうがいいのかもしれない。

未来は過去、過去は未来

洋子が過ごす昭和ガジェットに満ちた日常は、過去なのか、未来なのか。

パッキンが緩くなった水道の蛇口、マッチで火をつけるガスコンロ、茶缶、きゅうす、観音開きの洋服ダンス。掃除ははたきと箒、ちりとり、ぞうきん。そして、一槽式洗濯機、オープンリールの録音機、タコ足配線。昭和生まれの私でも全部を体感しているかどうか怪しい、昭和30〜40年代ごろの風景であろうか。

かつて私たちはいろいろな未来像を夢想してきた。ちりひとつ落ちていないピカピカの都市、無法者が支配する灼熱の荒野、文明のジャンクと電脳が共存するモザイクワールド…いずれも『ひそひそ星』とはだいぶ質感が異なる。ついでにいうと、『銀河鉄道999』のミスマッチ感とも違うのだ。

『ひそひそ星』では、時計の針を巻き戻したようにという表現そのまま、ある限られた世代の懐かしい時代を未来像として再現した。心の奥底にしまっておいた記憶の具現化とも思われる光景。未来なのか過去なのか、よくわからなくなる。同時に未来は過去であり、現在でもある?私達はどの時間軸に生きているのだろうか。

退屈な日常を過ごしていますか?

※写真はイメージ。映画とは関係ありません

公式サイトにはアンドレイ・タルコフスキーの名が引用されていた。見る人によっては退屈と感じるのも理解ができる。過度な刺激とスピードに支配されていては、モノクロームで綴られる深い詩情を受け取ることはできまい。「映画は時間の彫刻」と論じたのは、タルコフスキーである。

平凡な日常を突然失うことがどれだけ悲しいことか、さまざまな災厄がそれを証明した。退屈でもいい。ちょっとしたことに生きる喜びを感じつつ淡々と過ごした日々が、なんと愛おしいものか。

『ひそひそ星』を着想したのは園子温監督が20代の頃なのだそうだ。時代は過ぎ、日本が大きな震災に見舞われたのは2011年。時が止まり日常が過去になった。監督は何度も被災地を訪れ、現実を目の当たりにしたのだという。監督の中で、時間と記憶が映画『ひそひそ星』として形となったのはその時か。

写真を含めモノクロームは決して引き算ではない、と個人的には感じている。豊かな色彩とは次元が違う説得力を隠している。園子温という人物については何やらスキャンダラスなイメージがまとわりついているが、同作品の評価とは関係ない。素晴らしい映像作家だと思うし、機会があればぜひ、たくさんの人にご覧頂きたいと思う。

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