日本の都市開発
大阪で、東京で。
木を切り、何やら新しい箱物を作る。または、コーンやゲートやコンクリートの棒のようなもので塞いだ歩道を作る。
地域住民からは反対意見が出るような、そんな開発計画を目にすることが多くなった。
私のきっかけは神宮外苑だが、おそらく日本中に「小さな神宮外苑」みたいな出来事が頻発していたのだろうとは推測する。
世界を旅して思う。
アメリカやカナダのような広大な土地を持つ地域の独特の美しさは別としても、イタリアの都市の美しさは記憶にとどまっている。
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天使が神様に言った。「風土よし、気候よし、食べ物も美味しい。神様、イタリアばかり恵まれすぎて、他の国と比べあまりに不公平では?」
すると神様は
「心配するな。イタリアにはイタリア人を入れてある」
という笑い話がある。
意識せずに住んでいたが、確かに愛すべきイタリア人野郎どもとしょっちゅう殴り合いのケンカをしたものの、食べ物は(癪に障るが)かなり美味しいし、気候もやっぱりスウェーデンやドイツ、イングランドの暮らしを思えば、ヨーロッパの中では比較的温暖で陽光煌めき、心の緩みが違って、軍配は南ヨーロッパに上がる。癪に障るが。
そして都市の在り方。これはなかなか面白いものがあった。建築に盲の私でも、考えさせるだけの力を持った建物が多かった。
都市計画で言えばパリやロンドン、ウイーンやプラハ、サンクトペテルブルクといった、過去に大帝国を経験した都市は、何百年経っても外観は美しい。住むと最悪なところもあるけれど、だけど、街並み全体が統制が取れため息が出るほど美しい。
イタリアの古代から栄えている都市は、今でも十分に成り立っている建物が多く、素晴らしいなぁと思う。古代ローマの上下水道なんて、つい最近まで使われていたらしい。
そして広場や自然との調和が、目に優しかった。
「永くある」
これは、本当に考えさせられる事柄だ。もちろん古代ローマ人が、2000年後を想像して、未来のために、だなんて大義を持っていたとは思わない。法王庁抱えるローマが、何百年後を考えて都市を建設したかなんて、どちらかというと生臭坊主たちは何も考えていなさそうだ。でも、結果として残っている。
新しい開発をするほどの技術もお金も無かったことと、たまたま、外敵や蛮族侵入や空襲での破壊、自然災害など、様々な要因が無かったことが、奇跡的に重なって今があるとは思うから
だから、我が国の木造建築の耐久性を嘆いている訳ではないし、祖先を恨めしく思うわけではない。
古代や中世の建物は、今回の呟きからは外す。
現代の建築である。しかもここ20年〜30年程度の話。
日本の都市開発には、「永くある」それを微塵も感じない。なぜか。作る人が利権しか考えていないからである。利権「しか」というのは些か乱暴か。何かと言うと出てくる隈研吾だって、100年後には到底残らないようなデザインをして一体何が楽しいのかと首を捻る。壮大な無駄遣いをしているのだから、悪意ある環境破壊にも繋がりかねない振る舞いと言っても過言ではない。隈研吾の名は馳せ、土建屋は一時的に儲かり、政治家にはキックバックが入る。その場限りの仮初の一夜だ。
なぜ東京は美しくないのか。
それをずっと考えている。香港やベトナムなど、アジアの都市は「活気がある」という言葉で好意的にガチャガチャした街並みを表現されることが多いけれど、本当にそうだろうか。
百歩譲って、ずっとそうなら良いが、活気がなくなったら、ただのガチャガチャしか残らないけれども。そして日本は、間違いなく活気がなくなって、ガチャガチャだけが残りつつある。神奈川、埼玉、千葉だけでなく、東京も一部を除き、活気がなくなって来ている。
乱開発の残骸みたいなものが、東京のあちこちに散見される。
杜撰な都市計画の成れの果てである。
地震大国だから
刹那の文化だから
そんな風に、100年先も残らない建築などを擁護する向きがあるが、
確かに一因であるだろう。
でももっと、根っこは深い。
政治とくっついている。
利権もキックバックも、その場のその人しか救われない。長期的視点の欠如である。
神宮外苑の件もだし、歩道の歩きにくさ、段差や突然現れるコンクリートの棒など、多様性の視点が欠けすぎていて、笑うレベル。
ベンチに肘掛けがあるものもそうだ。その場限り、誰かが思いつきでやるだけで、そこに議会制民主主義の姿はない。(誰か、というのは言うまでもなく、心身ともに健康な中高年男性である。)
木を切り倒すのも良いだろう。100年なんて言わない。20年後にどうなっているか、見ものである。
1988年に開場した東京ドームがたった30年で老朽化のため移転とのニュースを見た。
東京23区にはいたるところで再開発という名の財閥系の同じ建物がニョキニョキと立ち並ぶ変わり映えしない10年後には古臭くなる運命の街並みで埋め尽くされている。
私たちは近年、大量消費で社会を構築してきた。すでに80年代には環境破壊なども含めた議論が進められていたと聞く。
日々の食料品や雑貨、書籍、家電などだけでなく、建築にも軽々しく大量に建てては壊して行く文化が根付いてしまっては、もう大量消費どころの騒ぎではない。
なぜこんなに先のことが考えられないのだろうか。人間はどこまで愚かになれるのだろうか。