話せなかった福島の出来事 石巻市泉町・清水葉月さん(27)
石巻市泉町の清水葉月さんは、福島県浪江町の出身。福島第一原発事故で長期の避難生活を余儀なくされた町だ。石巻市を拠点に東日本大震災の伝承に取り組む公益社団法人3・11みらいサポートに勤めており、自身の体験を次世代に生かそうとしている。
清水さんは震災当時、浪江町から電車で20分の富岡町の高校に通う2年生。授業中、同級生の携帯電話から緊急地震速報が流れた。誘導されて避難した校庭で身を寄せ合い、泣く生徒もいた。
丘の上の高校は周囲を木に囲まれ、街の様子は見えない。「駅が流された」。生徒と顔なじみだった富岡駅の売店の女性が学校に連絡を入れた。清水さんはどうやって帰るか、不安になっていると学校が避難所になった。浪江町職員の父親は災害対応。夜遅く母親と妹が車で迎えに来てくれ、友人も乗せて学校を後にした。
翌朝、母親の運転する車で街の様子を見に行くと、人がからっぽで静か。走り去るパトカーの中の警察官が防護服を着ていた。家に戻り換気のため窓を開けると、ドーンと地鳴りがし、地面が脈打った感じがした。近くの橋が落ちたのかと見に行くと、橋はあった。目の前に1台の車が止まり、運転していた役場の人が告げた。「原子力発電所が爆発した。逃げなさい」。
母親と妹と車で町の避難所に行ったが、満杯で「先へ向かってくれ」と言われ、父親や先に来ていた祖父母と離れ離れになった。そのまま福島市方面に走り、道の駅で車中泊。兄がいて、母の実家のある千葉県に行くことにし、13日のうちにたどり着いた。
震災伝承に関わる清水さん
高校再開のめどはなく、松戸市の高校に転校。父親と祖父母は福島に残り、友だちもいない。原発事故による偏見も感じた。取り残された気持ちが続いたが、夏ごろに先生やクラスメートに震災の経験を話すことができ、気持ちの整理がついた。
横浜市の大学に進学。ボランティアで福島の子どもたちのための保養キャンプに参加し、自分の経験から「子どもと関わり、思いを分かち合うことをしたい」と考えるようになった。転校先の高校で教育実習した際、学校が連携していた教育系NPOを通じて女川町の向学館を知り、卒業後、学習支援や放課後の居場所づくりに携わった。
「ありがとう。こんな場所がほしかった」。向学館で言われた言葉が心に残った。街の中での子どもの居場所を考えるようになり、平成29年4月から石巻市子どもセンターらいつに勤務。子どもの目線で地元の魅力や課題を考えるまちづくりクラブを担当した。子どもにも伝える権利があり、その力があることを気付かされた。
昨年末からみらいサポートに就職し、今月開館した伝承交流施設「MEET門脇」で子ども向け防災学習の展示などを担う。清水さんは今、さまざまなつながりで成り立っていた日常を思い返す。「起きてしまったことは変わらないが、今後を生きる上で震災を学ぶことは大切。原発事故と同様、目に見えない差別がある新型コロナ禍だからこそ、身の回りで苦しんでいる人を見て助け合える世の中になってほしい」と願う。
浪江町はまだ帰還困難な場所もあり、復興は数年遅れ。道の駅ができ、企業誘致も進められており、ようやく動き出したところだ。古里への思いはあるが、まだまだやるべきこと、経験したいことがある今は戻ろうとは思わない。「違う場所に来たからこそ見えることがある」。清水さんの復興の階段はまだ途中の4段目だ。【熊谷利勝】
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