「もし明日自分が死ぬとしたら」~WEBラジオくるみの日々酒、第二夜~
皆様こんばんは、KURUMIです。
私はお酒と音楽がすきなだけのどこにでもいるベース女子です。
コロナ渦に巻き込まれ、1人飲みの寂しさに耐えられず
とうとう1人でWEBラジオを始めました、というのが前回までのお話。
皆もう少しだけ頑張って歩み寄って
自分の好きな音楽のジャンルをひろげてみませんか?という
恐ろしくおせっかいなテーマで絡み酒をするにいたった記念すべき最初の夜でした。
前回の記事➡「洋楽を好きになる方法」~1人宅飲みが寂しくなってしまった夜に、私はWEBラジオを始めると決めた。WEBラジオくるみの日々酒、第一夜〜
誰かに向かって話す、という幸せ
禁断の味を知ってしまった私の第二夜は「もし明日自分が死ぬとしたら」
というテーマでうだうだとウイスキーを飲むことに決めました。
私のおうち飲みでは常連のブラックニッカクリアブランド
とにかくどこでも買えるし、
飲み慣れたこの味にホッとしたい夜は数知れず。
飲み慣れたお酒、飲み慣れた味というのは
時として私を救うのです。
私だけかもしれないけど。
「決められない人間」の頭の中と、心の動き
まず最初にお伝えしておきましょう。
私が時として周囲をいらいらさせるレベルの
「決められない人間」だということを。
貴方の周囲に一人はいると思う。
「どこいく?」
どこでもいいよお
「何食べたい?」
なんでもいいよお
そう、まさにそれが私だ。
いや自覚はあるのです。わかってる。
たまにはお前が決めたらどうだ、お前に意思はないのか?
そう思われることは重々承知で、それでも決められない。
この現象というか気持ちを言葉で言い換えるとしたら
「何かを決める、その決断するという行為自体にストレスを感じやすいタイプだ」とでも言えるでしょうか。
これが正しい表現なのかはちょっとわからない。
決めるという責任から逃れるためのただの甘えだろって言われることは多く、そういわれて言い返す言葉は見つけられないのだけど、ちょっとだけ説明してみてもいいだろうか。
意思がないわけじゃないし、ものによってはむしろ頑固だったり譲れなかったりもするけれども、日常を過ごしている中でその譲れないものはきっと少ないのだと思う。生きて生活をしていく中で、基本細かいことにこだわりがない。
あとはそうだな、当たり前のことだけど
どちらかを選ぶということは痛みが伴う。
どちらかを選ぶということは、どちらかは選ばれない。
これは完全に私の場合、ではあるのだけど
今、自分の目の前にあるものは
その時どんなに自分自身がキャパオーバーであっても
反射的に全て自分の手で拾い上げようとしてしまう性分としては
どちらかを自分の意志で切り捨てる選択をすることがすごく苦しい。
選ばれた方ではなく、選び取ったほうではなく、選ばれなかった方に意識がひっぱられる。
(気を付けないと、この性分のせいで自滅することがあるので
もし私と同じような性分の人がいるとしたら
自分の近いところに冷静な友達、ないし家族、ないし恋人、
とにかくすぐ近くに冷静なやつを1人おいて
そいつに相談する癖をつけるのが一番自分を救う結果になるのでオススメ)
ごめん、脱線してしまいました。
この性分についてもまた今度語りたい気持ち。
まあぐだぐだ言葉を並べましたがとにかく
それがどんなにどうでもいい些細な選択だったとしても
一抹のストレスを感じてしまう。
例えば今日の夜ご飯は洋食がいい?和食がいい?
こんなどうでもいい二択ですら、決めてくれる誰かが居てくれた方が心が救われてしまう、そんな性分なのです。
だからひとたび遊びに行くよ!ってなった時
ぐいぐい決断して、ぐいぐい行先を決めてくれる友達とか
私が常に何でもいいよと言っても怒らないで、一緒にのんびり決めてくれる友達とか
私の周りにいるのは気づけばそういう優しい人ばかり。
裏を返すと、そういう人じゃないと私はつきあっていけない。
それくらい私にとって「選択する」というのは一大イベントなわけです。
全ての「決められない貴方」に捧げる、究極の選択術
ここでやっと本題、今回のタイトルの説明に入ることができます(長い)
ここまで選択することが苦手な私ですが、当然ながら
「自分で決めなきゃいけないこと」は、もちろんある。
むしろ人任せにしちゃいけない、
どんなに苦手でも踏ん張ってちゃんと
「自分で決めなきゃいけない瞬間」
っていうのは絶対にあるのです。
人生そう甘くはないよね。笑
私の場合その大きな選択を迫られたのが進路でした。
これはラジオでも詳しく話しているのでサクッといきますが
音楽を続けるのか、このタイミングで一旦音楽をやめて就職するのか
簡単にいうとこの二択です。
私が数週間にわたって悩み続け、
泣いて、唸って、眠れなくなり、しまいには吐きました(どんだけ)
今改めて文字にするとなんてあっけない二択。
でも当時10代の私にとっては大問題で、この先の人生がかかっているというリアルな重圧がすごかったし、この先の自分がこの選択でかなり変化してくる予感がしたし、振り返って思うと実際にその通りだった。
そして私はいまだにこの時の決断を後悔せずにすんでいて
むしろ今の自分のことをある程度気に入っているのは
この時の決断をした自分にある、とすら思っているのです。
お察しの通り、私はこの時結局
とっくに決まっていた内定をけり
自分の本能に従う形で音楽を選択するのだけど。
この辺の詳細は文字に起こすのはなんだか、ちょっと、違う気がするので
詳しく知りたい人はラジオを聞いてくれると嬉しいです。
その時に、自分にとっての究極の二択を選んだ方法が
明日の自分を一度殺してみる
でした。
単純で簡単なことだけど、大真面目にやるのがポイント。
心の中でリアルに自分を殺します。
もし明日私が死んだとして、この世から本当にいなくなってしまうとして
その死の間際、その瞬間、
「私」は何を想い、何に後悔するのだろうか
ふざけちゃダメなの。
コツは如何にリアルに、死が実感として自分に降りてくるくらい
ちゃんと自分を殺せるか。
私が何かを選択する時にしんどくなってしまうのは
多分いろんなことを考えすぎて自分を毎回見失うから。
私がこれを選択したら周りに出る影響はどうなる
常識的に考えたらどっちだ
これを選んだら周囲にどう思われるのだろうか
これを選んだら親は悲しむだろうか
選んだその先で失敗したら、立ち直れるのだろうか
馬鹿だと、思われる
恥ずかしい
etc
でも自分が明日死んでしまうなら
「自分」以外の心は、環境は、周囲への影響は、周りからの視線は、
途端に全然関係なくなる。
だって死んでしまう。
私が死んでしまう。
その死の刹那に私が後悔すること、思うこと、
それこそが余計なものがとっぱらわれた私のむきだしの本心
なのかもしれない。
その当時、悩みすぎて眠れなくて吐いた朝方にそう思ったのです。
多分ね、こんなまわりくどいことしなくても
ちゃんと決めることができる人の方が多いとは思う。笑
それでも私は自分で見つけ出したこの決め方に
今でも救われているのです。
いまだに大切な決断の時は、明日の自分を殺しています。
別に自分の心に従うことだけが正義ではないし、全てではない。
ただ、自分の本心を自分で自覚したうえで選択することの重要性は
計り知れないなと思うのです。
意外と皆、自分の心を少しずつごまかして生きてるのかも、と思うことがあります。
大人になるほどにそうしなきゃいけない場面は増えて
知らないうちに自分のむきだしの本心をみつけられなくなってたりする。
どの方向をむいて、何を選択したとしても
自分の本心がどこにあり、何を想い、その結果何を選んだのか
これを自覚しているだけでその先の自分が救われる気がするのです。
少なくとも私はそうだった。
息をしているだけでえらい
そもそもどの道を選択しても、ぶっちゃけ超大変。超ツライ。
息をしているだけで人類皆エライ。
そう思わないとやっていけないくらい、どういう風に生きても大変なことは山積みだし、ツライことからは逃げられない。
ただ、選択をした時の自分の心を自覚しているか、していないかで
キツイ時に踏ん張れる力や、ぶったおれた時にもう一度立ち上がる力が全然変わってくると思うのです。
何を選んでも、人生は険しい。
楽して生きたいけど、実際楽な人生なんてない。
それなら、ずっこけてすりむいてへこたれた時
なるべく早く立ち上がり、すりむいた膝を消毒し、前を向いて歩ける方が多分いい。
地べたに這いずっている時間は、少ないに越したことはない。
周りからの雑音も、自分の心が揺れて見えない時ほど強く刺さってうるさいものだし、自分の芯が自分でちゃんと見えていれば周りの雑音もぼんやりして、うまくいけばあまり聞こえなくなる。
生きにくい人代表だったから、わたし
生きにくい人がもう少し、息しやすくなるようになったらいいなって
いつもそう思うのです。
さて!
今夜も超語っちゃったな!満足。笑
また金曜日の夜に
お会いしましょうね。
よい夜を。
KURUMI