二十歳の私を保管しているBAR
丁度10年程前、
私は怪しげな地下に続く階段を恐る恐る降り、重たい金属の扉を、めいっぱい力を込めて押した。
開けた空間にコンクリートがむき出しの床、壁は塗装途中で、作業をしていた数人がこちらを振り返った。
バイトの面接は何件も受けてきたけど、これからOPENするBARで働くのは初めて。どうやらお店の工事はまだ途中だけどお洒落な雰囲気で、出てきてくれたマスターも髭にロン毛でいかにも「雰囲気あるBAR」に居そうなイメージ。
うーん、こういうお洒落なところは、あんまり受かる気がしない。
私はBARのバイトの面接にきていた。
このBARの面接を受けようと思った決めては家が近かったのと、「音楽好き歓迎!」と応募要項に書いてあったこと。当時バンド活動にどっぷり沈んでいた私はほんの少しでも多く音楽に触れていたかった。
しかし当時の私はまごうこと無きクズだったので履歴書の書き方などほとんど調べず、今思うと恐ろしいけど、スッカスカの空欄だらけの適当に書いたひどい履歴書をマスターに提出した。
なぜか受かった。
なんでだ。
後日マスターに聞いたらひどい履歴書すぎてウケたけど、バンドの話をしていた時の音楽愛の強さで「おもろいな」と思って採用してくれたらしい。
ひどいレベルの履歴書を提出した私も私だが、採用するマスターも大概である。もし私がマスターの立場なら絶対採用しない。
当時の私は酒を飲み始めたばかり。
どうやら周りよりも酒に強いと気づいて、絶賛調子に乗りまくっており、酒が強いことをステータスだと勘違いしていた時期である。
控えめに言って当時の自分を思うと恥ずかしくて死にたくなる。
おまけに緊張のあまり、BARカウンターの内側にいるときはお客様のお話を聞かずに自分の話のみを弾丸トークの超絶早口で語りまくるという、カウンターに一番居ちゃいけないタイプの人間だった。
そういう状態でスタートした私にマスターは少しずつ、少しずつ、
カウンターにいるときに来てくれたお客様の話を「聞く」面白さを日々じっくり伝えてくれていた。
話したいお客様なのか、聞きたいお客様なのか。
スタッフとの距離感はどれくらいを望んでいる人なのか。
アルコールがある空間で流れる空気、
いつも寡黙な人が饒舌になる瞬間、
お酒はいつもよりも感情のふり幅を大きくする効果がある。
いつもよりも強く感動に浸れるし、悲しみを深めてかみしめることもできる。
それを邪魔しないようにそっと寄り添う立ち位置、言葉。
二十歳の私に刻まれたそれは、10年近く経過した今でも私の根っこに息づき、私の軸を支える存在である。
特に記憶に残っているのが
私がマスターにウイスキーの味を覚えたいと相談した時だ。
私はビールがやっと飲めるようになったくらいで、
ウイスキーなんてほとんど飲んだことがなく
お店の棚に並んでいるウイスキーの味をお客様に尋ねられても説明するのが難しかった。
そもそもボトルラベルの表記を読むことすら難しく、ウイスキーの名前がなかなか覚えられず、注文されたら高確率でオロオロしてしまってひそかに悩んでいた。
そのBARで働き始めて少し経ち、常連のお客様に少しずつ覚えてもらえるようになり、人の話を聞く面白さにも気づき始めていた。
だからこそもっと出来る仕事を増やしたかったし、来てくれたお客様にお酒を楽しんでほしくて、その手伝いがもっとスムーズにできるようになりたかったのである。
でもウイスキーなんてぶっちゃけ全部同じ味に思える。
キツイ、苦い、全然美味しくない。
この状態でどうやってすすめればいいのだろう。
マスターは営業終わり、店が閉まった朝方の誰もいないカウンターに
小さいストレートグラスを1つ置いて「まずはどのウイスキーを知りたい?」と言った。
当然味がわからない私は、ボトルデザインが可愛いという理由だけでメーカーズマークというウイスキーを選択した。メーカーズマークはボトル一つ一つに赤い封蝋がしてあるのが特徴で、それがとても魅力的にみえたのだ。
メーカーズマークを少しだけストレートグラスにたらして
「ちょっとでいいから舐めてみて、その味を覚えてて」
とマスターに言われて従う。
舌先がびりびりする。
鼻からウイスキー特有の香りが抜けていくのを感じた。
思わず顔をしかめてしまう。
「ウイスキーの余韻が残ってるうちに少しだけ水を口に含んでみて。
味が変わっていくのがわかると思うよ。」
マスターに差し出されるままに水を口に含んだその瞬間、
舌先のびりびりが消え
ふわっと水が甘くなるのを感じてびっくりしてしまう。
「え!?甘くなりました!」
マスターは氷を入れた空のロックグラスを持ってきて
ストレートグラスに残っていたメーカーズマークをそれに移し替え
氷をカラカラ言わせて軽くグラスを揺らす。
「はい、じゃあ今度はこれを飲んでみて」
氷に冷やされ、ほんのり加水されたメーカーズマークは
甘みは増しつつ、冷えたことにより舌先がびりびりしたあの強さが
少しマイルドになってキリっとした味わい。
当然そんなにすぐ
ウイスキーが美味しいと思えるようになったわけじゃないけど
でも、氷や水をほんの少し加えただけで甘みが増し
違いが感じられたのがとても面白く
今まではただキツくて臭くて苦いだけだったウイスキーへの印象が変わっていた。
「店のウイスキーは全部試していいよ。これもお仕事だからね。」
と言ってくれた太っ腹なマスターのおかげで
私は片っ端からマスターがやってくれた飲み方で
ウイスキーを試すことが出来た。
そうやってほんの少しだけの量をじっくり比べて飲むことによって
今まで全部同じ味だと感じていたそれは
実はウイスキーそれぞれで全く違う味わいをみせてくれていて、
むしろ個性豊かなお酒だということに気づいたのである。
その違いや変化がただ面白かった。
新しく学んだその感覚を、私は嬉々としてBARに来るお客様と共有した。
いつも同じウイスキーを絶対頼む人には、そのウイスキーのどこが好きなのか聞いてまわった。
そのウイスキーを選ぶ理由、好きな味、ついでにそのウイスキーにまつわるそのお客様の思い出話なんかを聞けたりした時には何だか本当に嬉しく、私は仕事をしているはずなのにご褒美をもらったかのように感じた。
BARカウンターの中の人、という特権を行使して他人の生きてきた人生の一部を覗き見できることに、心からの喜びを感じた。
アルコールは人の垣根を取り払い
舌を柔らかくする
行きすぎるとその効果が悪く影響することもあるので
飲み方には注意しなきゃいけないと、何度も失敗して身をもって知ったのだが。
今まで自分の生きてきた世界では、絶対に出会えなかったであろう様々な年代や職業の人達にカウンターを通して出会い、自分じゃ絶対に経験できないであろう人生の一部を沢山聞かせてもらった。
いい話も、悪い話も、悲しい話も、嬉しい話も。
どんな立場の人であっても、BARカウンターの前では平等だった。
横並びに並んでしまえば皆同じお客様で、上も下もなかった。
私はウイスキーの力を借りて様々な人の人生を聞くことができたのである。
半年も経つ頃には舌も慣れ、
いつの間にかすっかりウイスキーが大好きになっていた。
心からウイスキーを美味しいと思って飲めるようになっていた。
そのBARには三年ちょっとお世話になった。
私の二十歳の頃に感じた全てがそのお店に詰まっている。
思い出したくないくらい恥ずかしい思い出も山盛りあるけど
今の私を作る全てがあの場所、あのお店に今でも保管されているような気持ちでいる。
その後私は上京し、北海道札幌の裏参道円山にひっそりと存在するそのBARに気軽に行くことは叶わなくなったが
今でも家でウイスキーを飲むたびに思い出し
あのカウンターで過ごした日々や、言葉を何度も反芻する。
今世界は感染症に侵されていて、気軽に飛行機にのり、そのBARを尋ねることはできない。歯がゆい思いをしているのは私だけではないだろう。
二十歳の私を保管してくれているあの場所を守りたい。
今の私に力はなくて、それがとても悔しいけれど。
それでも今の自分に出来ることはやろうと思っている。
きっと、あのカウンターに座ってウイスキーを飲むだけで
普段は忘れかけている二十歳の頃の私がそっくりそのまま鮮明に
蘇ってくる。
当時の私のいろんなものがそのお店の空間に保管されている。
あのBARが、二十歳の私が感じた大切なもの全てを保管しておいてくれるおかげで、私は当時の記憶が薄れてゆくのを怖がらずにすむのだ。
あのお店が存在していてくれる限り、私は大切なものを見失わずにすむ。
何度だって思い出せる。
何年歳を重ねても、日々の忙しなさに絶望し、迷い、人生に疲れ、ちょっと道を踏み外して嫌な大人になりかけたとしても、
きっとその度に何度でも思い出させてくれるだろう。
そして思い出すたびに軌道修正することが出来る。
だから私は怖がらずに歳を重ねていける。
二十歳の私がどこにいるのかを知っているからだ。
そういうお店に出会えたから
私は今こうしてウイスキーを愛していられるし、
人のことを愛おしいと思うことが出来る。