2022.7.12 過剰は邪念
ここ数日はメニュー提案に向けて試作の日々。
試作中に気をつけていることが2つある。
ひとつは「いい格好しない」こと。
もうひとつは「過剰にならない」こと。
試作中に、と書いたけれど、仕事をする上でも日常生活でも常に意識してる。
隙あらばいいとこ見せようとしてしまうし、なんでもやり過ぎてしまうって自覚してるから。
サービス精神が旺盛と言い換えることもできるけれど、私がやっているそれに対して、この言葉は相当ポジティブに振りきった言い方になる。
私のサービス精神の矢印は、「利他」ではなく「利己」だから。
不思議なもので、自分が主催する料理教室やイベント等では、無駄なサービス精神が発揮されることはない。
現状の自分の最大値を理解しているから、私自身への過度な期待なんてない。
無駄なサービス精神は、お仕事や声をかけてもらったイベントなど、私にとってアウェーの場所でのみ発揮される。
他者からみた私を掴みきれない。
どこまで期待されているのか(されていないのか)がわからなくて不安になる。
その不安が呼び水になるらしい。
いいとこみせたいとか、期待に応えたいとか、喜んでもらいたいとか、また誘ってもらいたいとか、私に声をかけて良かったと思われたいとか。
無駄なサービス精神の元凶は、邪念。
私の中にある邪念の塊。
まさにその通り。
メニュー提案のお仕事で言えば、「目の前のやること=クライアントから提示されたテーマ」から横道にそれて、「不純な想念=あれもこれもできることを伝えたい」がもりもりに表現された一皿は、盛り込み過ぎで何がしたかったのか、何を食べてほしい一皿なのか、全く伝わらない。
出来上がった料理の撮影を終えた時点でも気づかず、なぜこの一皿を提案したのかというコンセプトを書こうとしたその時にやっと、またやり過ぎてるわ…ということに気づく。
書けないもん。
あれもこれも邪念が詰め込まれすぎて、文章になんて出来ない、恥ずかしくて書けない。
毎回気をつけていても、ちょっと気を抜くとやってしまう。
私にとって料理が一番他者に貢献できることだと思っているから、過剰に肩に力が入ってしまう。
過剰にいいところを見せようとして、過剰に詰め込んで、結果いいことなし。
目の前にある邪念の塊プレートを見て、赤面して、やっと肩の力を抜いた料理をすることができる。
相手が力まずに受け取れるものをつくることができる。
自分が得意とすることや、それを生業とすることに関しては、他のことより自信を持っていて、だからこそ同じだけ自信のなさも持ってる。
どちらも同等に持っているからこそ、謙虚にできるはずなのに、自信のなさを隠そうという邪念を抱くから、失敗する。
日々是精進だなぁ。
過剰は邪念。
そこに良きことなし。
自戒の念を込めて。
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