キウイと私(名付けについて)
キウイときいて何色を思い浮かべるだろうか。私は圧倒的に黄色なのである。
小学校の頃の朝ごはんの記憶に、おはよう日本とキウイは欠かせない。しかし、その頃のキウイは緑色であった。今では好きな食べ物をきかれたら「朝食」と答えたい私も、当時は食パンの耳の分厚さに敵わず、「早く食べなさい」の声とともに強引に飲み下されるだけの緑色の存在、それがキウイだった。
私のキウイが黄色くなったのはいつ頃だろう、思い出せない。が、初めて目にした黄色いそれを、私は思い出すことができる。否、その黄色を実際に目にした自信はなくて、しかし、私は大きな確かさを持ってそれをイメージすることができる。私の第一声は「なにこれ!」である。皿の上の黄色と私の目の遠さから推察するに、6年生の頃ではなかろうか。(白い皿、ミッフィーのフォーク、母の声。)
そういうわけで、その日を境に私のキウイは黄色い。昨今のキウイフルーツブームに思うことはないが、某社のプロモーションには若干の違和感と嫉妬心を覚えるのもまた事実である。「私は前から知ってたし。言われなくても食べるし。」という類のやつである。
キウイという鳥の存在を知ったのは、大学3年生の頃である。その頃の私は、通りがかった子供服店で購入したキウイ柄のリュックを背負っていたのだが、その柄の中にさりげなく鳥がいた。特に気にも留めずフルーツではないキウイの存在をネグレクトしたまま過ごす私の背中に「鳥もいるんだね。」と言い放ったバイト先の明哲な先輩は私の「は?」という表情を見て、説明してくれた。
ちなみにこのキウイという鳥、なかなか親近感のわく奴である。私は会ったことがない。ニュージーランドにいるらしい。日本だと確か天王寺動物園で会える。
キウイ(鳥)
・飛べない ・足は速い ・夜行性 ・目が悪い
・キーウィと鳴く
・キウイ(果)を食べる など
そして私のキウイがキウイになったのは、それから間もない2017年の夏。藝祭に現れたゲル(あれは一体何だったんだろう、楽しかったな。)の中で踊ることになった私は演目タイトルの提出を求められて「え、なんでもいい、じゃあ、キウイダンスで。」みたいなことをゲルの創設者に告げた。定かではないが、目線の先には例のリュックがあったのだと思う。
そんなことがあって友人たちが私のことを「キウイダンサー」と呼ぶようになり、何かが始まった。当時はちょうど、巷で「ダンス」と呼ばれるものと私がそう呼びたいものとの乖離に気がつき始めた頃で、その違いをなんらかの言葉で指し示す必要があった。そこでその役を買って出たのが、私のキウイだったのである。
私が自身のキウイ論において参照している野口三千三は、『原初生命体としての人間』の第五章「ことばと動き」の中で、こう述べている。
ことばについての私の発想は「自分にとってことばとは何か」ということだけである。(中略)したがって、今あることば、その意味・概念は、ほんとうに自分がそう思うならば、他がどうあろうと、まったく自分勝手にきめてしまってさしつかえない。また、今ないことば、それがほんとうに自分にとって必要であるならば、他に通ずるかどうかは二の次で、勝手にことばを創り出し、勝手に使っていっこうにさしつかえない。(中略)もし、「ほんもの」のことばであるなら、おのずから他を触発するエネルギーをもつはずだ。
野口三千三(1972)『原初生命体としての人間』三笠書房、p.191
そう、つまり、私にとって「キウイ」は「ほんもの」であるから、「キウイ」としか言いようがない。これはもう、仕方がないのである。
しかしながら、そのキウイの中身、つまり私が何をどう思考しどこに至ろうとするのか、私自身がそれを知り、またそれを人と共有するためには、対話が必要である。そのための言葉を、なるべく「ほんもの」に近いところから獲得する。これが、私がこれからやろうとすることである。
もし、誰かが私との対話によってキウイ的なものを自身の内に発見したとして、それがその人の「ほんもの」であるなら、スイカでもバナナでもアボカドでも構わない。しかし、私にとってのそれは、圧倒的にキウイなのである。
ちなみに、私はそういえば、桃子という名前である。
「少し酸っぱいものへの憧れですかね。」
という言い訳を思いついたので、使っていくことにする。
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