永久の救済:無時間の領域:万有の彼岸
真理、無類の愛、究極の美、最高の善、全き涅槃、仏性、クオリア:それ自体によってのみそれであるようなもの、それらは無時間的である。
純粋理性、空想的社会主義、天国、また地獄のようなものもかろうじてこれに含まれる。
宇宙はそれではない。宇宙法則はそれである。
知性はそれではない。全知全能はそれである
生命はそれではない。生命機構はそれである。
自己意識は永遠に動的な〈今〉に留まる。
つまり純粋自己は無時間的である。
しかし、自己によって観測される事物は自分自身を含め全て時間的である。
時間的なものは総じて螺旋的発展とねじれを示す。ただしその半径は数日のように短期なものから無限に等しいものまである。また発展は点ではなく、ある程度の幅を持って分布する。{進化,生命,文明,文化,流行,規範,常識,など}
無時間的なものは螺旋的発展を示さない。
それらは常に原点にあって揺るがない。
時間的なものはどこまでも無時間的な存在に憧れ続けるシーシュポスのようである。
メビウスの帯に見られる反転、価値の裏返し、これも発展の一形態である。
無時間的なものを時間空間内に落とし込んだ時、我々はその偉大さに圧倒され息苦しさを感じる。
しかし時間的なものだけではあまりに無為で物悲しい。
人は元来、どこまでも夢見がちで貪欲な動物である。
自己意識を純粋自己にまで精錬すればあるいは誰でも無時間を愉しめるのだが、それはPNSEの最終段階、不認知の認知&非想非非想にあたり、成文化不可能で脱情緒的であるため、当人にしgh’?kらない無感覚tいeう感ka�樞�包シ搾シ�ソ��。繹ア竭
美的なもの―動的固執の対象―は時代を通して変容し、文化を作り、生活を飾り、その価値の普遍性に応じて保存され場所を取る。
つまり、自ずと生じた全き美は文明をその段階に止まらせる。
完璧な美は創造における重荷だ。
いかなる創作も次なる創造の邪魔をする。
我々は時間的変化によって完成することはない。
完成は常に変化の彼岸にある。
作品化を求める限り、評価を受ける限り、我々はその未完成さに苦しむ。
無時間的なものは新結合を求めない。
無時間的なものは何も生まない。
無時間的なものは目的にも手段にもならない。
無時間的なものは認知不可能という意味では存在しない。
無時間的なものは認知の彼岸に在る。
「いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできない」-アインシュタイン
人間の問題は人間的な方法では解決できない。
かなしいかな、神もAIも我々もどこまでも人間的だ。