『正気の歌』(せいきのうた)文天祥AD1280年
トップ画はウィキペディアから
なおひこさんの言うローエ:レンマでもロゴスでもミュトスでもない語り。
すなわち、「騙り」なき語り
このローエには「」を付けないのがお約束だろうと思う。
「○○」とはOSHOも嫌った閉じた系だから。
言葉は閉じたらあとはその味が落ちていくだけだろう。
ヌミノーゼは清明心の心境であり、
ローエは無性なる正気の沙汰(両性具有、栄養生殖)ということだろうか。
どちらも潜在意識の中の話であり、
微塵もウソ偽りがないがゆえに、
定型発達者と呼ばれる一般人には理解の糸口すら見つからない話だろう。
『サピエンス全史』には人類は虚構;ウソ偽りを駆使することで種族内生存確率を高めてきたとある。
大統領選挙などのスピーチを声帯ウソ発見器にかけると何度も虚構(でっち上げ、正常バイアス)が見つかるという話もある。
しかし、個々人の中での無意識、潜在意識はおそらく原始のままの心である。なんならここで、そう定義してもいい。
(一般人はこういう仮定を嫌う。定義とはせっかくの有効な仮定であるのに。)
精神病や精神疾患という言葉が排斥され始めて久しい。
始まりは第一次大戦などの「人類の形質の差別を否定する」ことにあったと思う。
人類は差別しないと人類ではないのに、
そこから差別をなくそうという「意識による無意識の殲滅活動」を人類自身が始めたのが19世紀だろう。
その反動として精神病や精神疾患という言葉が生れ、
精神というものが生れ、
個人というものが生れた。
それまでは個人は共同生活集団の部分でしかなかった。
つまり、個人性とはその肉体ではなくその「自我」
すなわち【「」性】に宿るのである。
部分として、歯車として、そのことに安住できた。
その部分が「精神」を持ってしまうと、その全体の形式は崩れる。
その崩壊寸前の『全体』を取り戻そうという活動が全体主義であった。
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個人と全体と社会がそれぞれに相容れない性質の自我「」性だと言った。
このことに気付いて自殺したくなる中高校生は後を絶たない。
学生とは数年後に違う自我に移行することが約束されている存在だ。
つまり、学生的なアイデンティティーは死ぬことが約束されている法人的な自我性なのである。
こんな制度は兵役・徴兵制と変わらない。
しかし、学生である期間中に、
個人・社会・全体・ひいては宇宙を貫く一貫した大自我(「」なしの自我)を習得して、梵我一如の境地にたどり着きさえすれば、自我の崩壊と全体主義への傾倒を免れることができる。
これができなければ、チャイルドか学生か社会人か国家人という、
その時々に属するなんらかの地位に迎合し、自我の生死を繰り返すことが「人生のすべて」になるのである。
この意味で、梵我一如の習得は自我崩壊の輪廻からの解脱である。
現代では隠された「苦しみの輪廻からの解放の儀法」
このことを「正気」(せいき)というありふれた言葉に納めた、秀逸な詩を発見した。
それがトップ画にも上げた「正気の歌」である。
作者:文天祥(1236~1283)
「自然」を支配し、
「生産」を機械や奴隷に押し付け、
「自由」と「横暴」を取り違え続けてきた西洋合理主義がいまだ知らない境地をこの詩に読み取れるだろう。
未来の可能性は浮動的であり、
古き哲人の道は盤石である。
この安定と不安定の中庸をいけば、
このさきも世界の正気の神威に気圧されることもなかろう。
ありがとう。 →漢詩