哀れまれることについて
実際嬉しい。
僕のために頭の容量を割いてくれているということだから。
パソコンのタスクと似ている。
何かが動いていると、別の何かの動きがにぶるものだ。
つまり誰かを気遣うということは、その瞬間の別の可能性や考えたいことを犠牲にしているということだ。
その価値があるから。
だけど、『余計なお世話』というずいぶん酷い言葉もある。
折角割いてもらった脳のリソースを無駄にする最低な考え。
恩を仇で返す行為だ。
…が、時々僕はそう思ってしまうことがある。
善意には善意を返せと教育されたからだ。
僕はわりと善意を安売りする。
『この人ぼく/わたしを気遣ってくれるんだ』
と思われて、何らか優先される存在になりたいからだ。
そうすることで自分の存在を肯定したくて。
だけどそれって押し付けがましくないか。
善意の行動をするから見返りに僕を愛してくれって言っている。
残念ながら自分がそうなので、善意を向けられるとすごく嬉しい反面、
『あわわ、返礼しなきゃだけどどうすれば…えーっとそもそも何かした方がいいんだっけ??』
とものすごく慌ててしまう。
なんなんだろうな本当。
過去、カウンセリングを受けたり友人に愚痴ったりしてきた。
だけど一時的にメンタルが回復しても、また沈むのだ。
そうすると、話を聞いてくれた人の努力をないがしろにしているんじゃないかと辛くなる。
だって辛い話って聞いてるだけで辛くなるじゃないか。
それを我慢して聞いてくれているのに、だ。
だから、なんだか気遣われると『無駄にしてしまうんじゃないか、申し訳ないな…』って思ってしまうのだ。
心の底から救いを求めているくせに。
この状況からなんとか抜け出したくて仕方ないのに。
イジられるのはあまり好きじゃないけど、その方が安心するのはきっとそれが理由なんだろう。
気遣われるでもなく、相手の自己肯定感のダシになりながら、構ってもらえてると感じるから。
僕ってめんどくせえな。本当に。
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