放哉忌に小豆島へ
毎年4月7日に、放哉先生が最期を迎えた小豆島では『放哉忌』が執り行われています。今回は九十九回忌。私も西光寺へ足を運んできました。
その様子を残していきます。
当日までのアクセス
小豆島までは、もういつものごとく夜行バスを使って高松駅へ。その後フェリーで土庄港まで行きました。
前回の記事はこちら
土庄港には8時半前には到着しました。この日は天気もよく、前回に引き続きレンタサイクルで移動することに!今回使ったのはこちらのレンタサイクルです。
こちらは8時半から借りられるので、時間的にもぴったり!また、普通の自転車か電動式化で選べるのですが、
・シティサイクル→1日1,100円
・電動サイクル→1日2,200円
と、1日がっつり使う、となるとコスパはよかったので、早い時間に借りられること。それに応じた金額。という面でこちらを選びました。
小豆島の島中をくまなく回るとなると、アップダウンがあり電動が便利だそうですが、今回は土庄町のみの、しかも西光寺まわりまでの移動だったので、お安いほうのシティサイクルを選びました。
放哉忌が始まる前にやりたかったこと
放哉忌は10時から始まるので、その前に着くようにしても時間があったので…。今回は、放哉先生が島に来て、まず頼って訪れた旧井上一二邸を探しに行きました。
行く前に、ホームページや本で調べてだいたい目途をつけて行き、さらに行くなら実際に放哉先生が行った道順で行ってみようと思い、下の画像の道でいくことに。
参考にしたのは、『小豆島の放哉さん』に記載のあった地図、またこちらのブログサイトをもとに尋ねました。
人見知りが激しいので、中まで行くことがかなわず、ここにあるんだろうなぁ…で引き返してきたのですが、もしまた機会があれば中まで見に行きたいな…とは思います…。
さて、時間もせまってきたのでこのまま西光寺のほうへ。
途中桜を見て写真を撮ったり、フェリーに乗ったときから思っていましたが、お遍路さんにきている方が多く、霊場巡りをしている一行を何人も見かけました。いいですね、私もいつかやってみたい。
放哉忌の様子
10時前には西光寺のほうへ到着しました。すでに、境内には多くのかたがおらっしゃって、老若男女問わずいろいろなかたが待っておられました。
まず受付をして、法要が始まるのを待ちます。
法要
10時になると、本堂の前で記念写真を撮ったり、その後は本堂の中にて法要を執り行いました。放哉先生の歌などもあるのですよ!また児童合唱団のみなさんによる歌もあり、いろんな世代のかたが関わっているんだなあ、と嬉しくもあります。
お墓参り
法要が終わった後は、そのまま記念館のほうへ歩いていきます。(十分歩ける距離です!民家の間を通り抜けていきます)
私のような飛び入り参加のものでも、お墓に線香も立てさせていただき、それだけでなく、お墓にお酒もかけさせて頂けました!ここまでできるとは思わず、こうして皆さんと一緒に手を合わせることができて感激でした。
お墓参りが終わると、ちょうどお昼時になりましたので、西光寺に戻る方々や記念館のほうに立ち寄る方などに分かれます。
この日は放哉忌ということで、記念館に無料で入ることができました!
記念館の後ろには、ちょうど満開で見ごろを迎えた桜の木も。
記念館でずっとお会いしたかった小山貴子さんがいらしており、本を読んだり、伊丹ミュージアムでの講演を聞けたりした感謝の気持ちを伝えることもできました。嬉しすぎました。幸せです。
記念館をひととおり見終えて、お昼ご飯を食べに西光寺のほうへ戻りました。友の会会員であると、お弁当があり、食べながら午後の部を待つことに。なんで私は、弁当の中身を撮ってこなかったんだ???と後で後悔しましたが、お弁当にはちゃんと梅干しもラッキョウも入っていたんですよ!!真ん中に!!!
午後の部
午後は西光寺客殿にて、
・第三回放哉と井泉水の書簡を読む会
・放哉ジュニア賞授与式がありました。
放哉役、井泉水役に分かれて、小豆島時代の書簡を朗読してくださいます。個人の感想ですが、放哉先生の手紙って…非常に読みづらいんですよね…。時代が大正時代、かなり昔だから仕方のないことだとは思いますが、カタカナ表記が多くて…。ただでさえ難しい言い回しな感覚でいるのに、カタカナ読みに疎い私はすごく読みづらいな、と読みたくても謙遜しがちなので、こうして音声になってインプットできることが本当に有難いと思えました。
書簡を読んで感想(すっとばして大丈夫です)
ここから少し、書簡を読みながら、心のなかで爆発してた感想を書いていくので、スルーしていただいて構いません。ほんとにオタク感想になっちゃうので。
書簡て本当に、そのひとの心の内が現れるから、スキスキ大好き!!!な精神なのですが、今回の放哉先生の手紙も例に埋もれず、なにこれ可愛い…。から始まって…。
初めに、こんな感じで焼豆とか食べたり、水がぶがぶ飲めばやってけるんだよドヤア!って書いてるかと思えば、しれっと後援会のお金頼りにしてるからね、とかお金要求してるし。
もしこれで難しそうなら、西光寺さんや井上さんからも援助してくれるって、とさらっと他人をあてにして甘えているし。
井上氏が「なんでも家からもっていってもいいよ」と言ってるけど、一体いつまで甘えてていいんだと思う?と相談したり、(甘えが出てる)
そういった直接聞けないことを、井泉水先生から探り入れてくれない?と、自分保守思考がにじみ出てるし…。
なんていうか、こういった子どもじみたところが好きで堪らないんですよねぇ!!!私は!!!!も~~~~どうにかしてあげなきゃ~~~~てほかっておけない子供みたいなどうしようもない所が、私の心を掴んで離さないんだな~~~~(大の字)ということを再認識しながら聞いていました。
ふと。「書簡読みづらいなら、私の偏見入りまくりになっても、現代風な言い回しに、手紙の内容書き出してみたいかも」とか考えたので、うん、やってみてもいいのかな、と思いました(ボソッ 現代版インスタになるぞ
書簡を読んだ後に、小山先生からのまとめの解説?評価があったのですが、すんごく「そうーーーーーーーーーー!!!!!それーーーーーー!!」てなったのが、放哉先生はなんでここまで立ち直れなくなったのか、ていう話になったんですよね。それで「幼少時代、特に困難に当たることなく過ごしてきたから、きっと大きくなって挫折してしまって、立ち直り方が分からなかったんじゃ」という流れになったんです。いや本当にそう。というか、仕事柄子どもと関わる中で、自分自身もすごく気を付けていることが、成功体験もさせつつ、いっぱい失敗・難しい壁も経験させてあげることなんですよね…。今のうちに、何とかなる年齢から、失敗を受け止めてそこからどうしたらいいか考える時間を作り、一緒に乗り越えて成功に繋げていく。これ、本当に大事で、失敗をしなかった子どもって、後々完璧でいることに疲れて倒れちゃうから…。自分自身もそうだったし。だから、決して否定しちゃいけない、受け止めてあげる大人がいるうちの壁にぶつかる経験は必要なんですよね。保育のなかでも気にしてる。そんで、放哉先生はそれがなかった、となると、まあ大人になって会社でやらかしてからじゃあ、立ち直れないよな…。きっとあそこから人生をどうやって歩いていけばいいのか、目の前が真っ暗になったんだろうな…。と心苦しくなる…。そんな人生だったから、心残る句が作れたのだろうけれども。
あと、もうひとつ。
「放哉と井泉水は別格の関係だった」という話
いや本当にそう、どんだけ書簡読んで頭抱えてきたと思ってるんだ。何なんだ、この2人!!??兄弟でも親類でもない、何なら学生時代に何かあった腐れ縁でもない。なのに、ここまで頼り世話しての関係がある、しかも井泉水先生は放哉先生の才を絶賛している。この2人の関係性が、あまりにも好きすぎて。うお~~~~もっと!!手紙のやり取りをみていたい~~~~!!!
なお、井泉水先生が書いた『放哉という男』は私の人生終わるまで片手に持っておきたい本だよ。
午後の部終わり
ジュニア賞の授与式も終えて、これですべての内容は終了です。
私のようなものにも感想を言う機会が回ってきて、頭の中真っ白でしたが、たくさんの方が放哉先生のことを大切にしていることが知れたこの放哉忌。参加してよかったです。
終わった後は、もう一度記念館に足を運んだり、長栄堂さんで大判焼を食べたりして、時間が迫ってきたので、自転車を返しに土庄港のほうへ戻りました。帰りは新幹線の時間もあったので、高速艇(1,400円)で高松港へ。その帰りの高速艇で、友の会会員の方と一緒になれて、「今の若い子は、インターネットとかでつながるんやね~(ほんわか)」など、放哉忌であった話などもできました。
さあ、来年は百回忌。大きな節目の日になるそうですね。そしてなんと、7日は月曜日。思い切り平日で、何なら新年度始まって忙しいんじゃ…と思いますが!何とか来年も放哉忌に足を運べるといいなと思います。