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『会社員放哉』 小澤武二

 渋谷の赤十字病院の正門をまっすぐに羽根澤通りが渋谷下通りにまで抜けているその通りを二丁程行ったところの通り端に放哉尾崎秀雄の住居があった。三間か四間の小じんまりした家でその頃放哉はそこでかおる夫人と二人で暮らしていた。それは大正四、五年の頃であった。私は山岡夢人と二人で一夜放哉を訪問した。そこは私の住居の新堀町からでも徒歩で三十分位の遠さであり夢人の家のO町からなら役半分の道のりであった。その時はたぶん私が夢人を訪問して序に連れ立っていったのであったろうか。その夜は放哉は珍らしく(だったろう)在宅して恰度晩酌の最中だった。そしてもう大分酔いがまわっていたと見え、巻舌でペラペラしゃべって、二人を煙にまいた。新しい對手が出来て嬉しかったのであろう。放哉はしゅう集珍蔵する所の盃を夫人にみんな出させて、それで二人に飲ませたりした。大したコレクションとも思えなかったが彼はかなり自慢な品らしかった。後日無一物になった彼と思い合わせて多少感慨深い事だと思う。当時、放哉は一番なついていたという姪-郷里で結婚していた-の死を悲しんでいたところだったので、その人の話をくどくどと話して涙ぐんでいた。一たい放哉は涙もろくて、芝居を見にいっても悲しい場面になると涙が出て来て始末におえないとの事であった。放哉にはそんな一面があった。夢人と私は放哉に矢つぎ早に盃をさされてちょっと閉口したが、二人とも酒には強い方だったから別に酔いつぶれもせず、いい汐時を見て辞した。帰り際にすっかりセンチになった放哉は二人に姪を悼む句を呉れといった。其の後夢人は短冊に書いて持っていったとのことだが、私はついに持って行かなかったと思う。
 その後、私は放哉の宅を訪れたようにも思うが記憶がたしかでない。一度、放哉を彼の会社の執務中を訪ねたことがある。東洋生命保険の契約課長だった彼は、課長らしい落付きをみせて椅子にかけていた。例のタキシード姿ではなかった。或は羽織袴であったようにも思う。とにかくきちんとしたみなりであった。しかし宿酔のような格好だったと記憶している。
 その後、彼がその会社を辞職しているとき、層雲社の経営相談の会合に姿をあらわした。そのときはじめて層雲の会に出席したわけだが、彼は大分大トラになってやってきて、すぐに酒を所望し階上の会場にはなかなかあらわれず、下の座敷でひとり酒をあおってくだをまいていた。会場に出ても呂律がまわらず「金のことなら心配するな甲州の若尾(大学時代の学友)に話していくらでも出させてやる」などなどいった。その時大島の着流しのまえをはだけて、ちりめんの兵古帯から金時計をぶらぶらさげていたので、後で「放哉のキン時計」という言葉が出来た。その夜、彼はすっかり酔って、ひとりでは帰れそうもないので、私と松木一郎と、もう一人誰だったかと彼の家まで送ることになり、仙台坂下の俥宿から俥をやとってやっと乗せて、そのあとからみんなでついていった。ところが、途中でどうしても降りるといって暴れだし、俥の幌を破壊してしまう始末、辛うじて彼の家まで運び込んでほっとした。そのおかげで、車の修繕費を若干取られたり、俥屋の主人にあやまったりしたことをおぼえている。
 東京在住時代の放哉とは、文通はかなりあったが、顔を合わせたのは右にいった機ぐらいであった。そのうち彼は通知もなく朝鮮へ立ってしまい、二三年後、たしか大正七年の年賀状の中に火災保険会社の肩書のハガキを発見した。(そのハガキは後に私が刊行した放哉書簡集『好日集』写真版で載せた)それからはときどきまた便りを交換した。それから大正の末年になってその会社をやめて内地に帰り、長崎から一燈園に入るという手紙をくれた。当時のことは私が戦災にあっても何もかも焼いてしまった現在記憶によるよりないのであいまいである。また放哉の顔は在京当時の印象だけで後に須磨寺在住の折、筒袖姿の写真(これも好日集所載)をもらった時には何か異なった人物が放哉を名乗って出て来たようであった。―私はいまでも放哉といえば、しゃちこばった会社員放哉をうかべるのである。


※『層雲』第37巻第10号 昭和25年3月 より引用しました。
※読みやすいよう、異体字を正字に変換している箇所があります。
※旧仮名遣いに関しても、読みやすさの観点から現代仮名遣いに変換している箇所があります。

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