不思議な小噺 第三夜 ー霊の声ー
耳元で霊の声を聞いたのは、一度きりである。
まだ二十代前半の頃、何者にもなれていなかった時期だ。
大磯という海辺の街に住んでいたわたしは、
当時、帰省は年に一度すればいい方であった。
まず新幹線と瀬戸内ライナーの往復帰省代35000円がなかなか捻出できなかった。
たった35000円だが、当時親に住居費を負担してもらい、
月6万のバイト代でやりくりしていたわたしには大金であった。
また、大人になっているに関わらず、賞にもかからぬマンガとバイトのみの、
経済的にも技術的にも貧しさと枯渇の繰り返しで、
人生の裏道をいっているような後ろめたさもあった。
それに加えて、家のゴタゴタが若い自分には重すぎて「帰りたくない」という気持ちが強かった。
家のゴタゴタとは、詳細は省くが、嫁舅問題である。
幼い頃は気づかなかった家の異変に、10代後半ともなると徐々に勘付くようになる。
なぜ母はおじいちゃんと話をしないんだろう。
なぜ連絡役にわたしを使うんだろう。
なぜ母はこんなに働いているのに、他の人は労わらないんだろう。
「クローゼットの中の骸骨」
という古い外国の諺があるが、公にできぬ家の秘密、のことを言うらしい。
うちは骸骨とまではいかなくとも、表向きは清潔な箪笥の中に、実はくさやが入ってました、ぐらいには目を顰めるレベルであろう。
家では、表向きは一家団欒のようにみえて、内実は母と他の大人とは見えない線が分かれていた。
姉とわたしはその両者を見てみぬふりをしつつ、ゆききしていた。
じわじわと感じていた「なぜ」は不安に変わり、HSP気質にとっては家にいても落ち着かずビクビクしながら過ごすようになり、行き着いた先は、嫁を二段も三段も低くみる田舎の古くさい家制度への巨大な嫌悪感へと変わった。
はやく「こんなところ」から出てゆきたい。
家出出来ないだろうか。。。
18歳の頃は部屋で悶々とバッハやベートーヴェンをCDウォークマンで大音量で聴きながら悩んでいたのを強く覚えている。
流石に家出をする気風も予算も当然持ち合わせておらず、受験勉強もまったくやりたくなく、悶々と過ごしていたらそのまま受験に殆ど落ちた。
「YAWARA‼️」の花園くんと同じ大学やなあ。。。
と進路指導室で願書を漁っていた時に、やたらと目について受けた滑り止めが運良く受かった。
当時はいい大学=いい仕事というコースを信じて疑わない風潮であり、
親は「この子の人生は終わってしまった」
という半ば諦めの境地だったであろう。浪人も許されなかった。
ただ、今まで大反対していた県外の一人暮らしを許してくれて、大学のある神奈川県に出てゆくことになった。
もちろん受験に落ちたのは悲しいことだったが、
人生は全てが全て、望み通りにはゆかない、
学歴の代わりに、「逃避」を取ろうと本能の部分では浅ましくも感じていた。
「逃避」と言うのが我ながら自分らしく思う。
当時から火の粉がかかる前にさっさと逃げることや、リカバリのために休むことを躊躇わなかった。
そのような経緯があり、帰省はなんとも気が重い作業であった。
家族みんなが好きだった。
わたしにとっては皆大切な人たちである。
だからこそ裏で憎しみあい、怨念のようなもの。。。阿修羅のようなものをじんじんと感じることがとても辛かった。
しかし、後年もっと大人になって親が詳しく事情を話してくれたとき、
ああ、これはもう、いくら公正で優しい母でも腸が煮えくりかえるであろう。。。と、阿修羅の空気の理由が、納得がいった。
わたしが母の立場なら、即刻離縁であろう。
それくらいのことを祖父はしでかしたのである。
祖父の名誉のために加えておくと、わたしと姉にとっては叱ることもなく、
のほほんとした優しい、先進的な考えを持った祖父だった。
頭脳派で弁がたち、尖ったところも多少はあったが、
あの時代にしては珍しく、父も暴力を振るわれたことなど全くないという。
それに人間というものは必ずジキルとハイド両方の面を持っている。
孫にとってはジキルで、両親こと母にとってはハイドであった。
田舎の本家の後継次男(長男は生まれてすぐに病死)ということで守られるところが多々あり、母も父もその不祥事を表にはけしてださず、最後の最後まで耐えに耐え抜き祖父母を「守った」。
また、わたしたち子供にも、「墓守」の任をやらねばならぬ、ときつくいって聞かせても、家庭の事情を話すのは我々が大人になってからで、子供の将来を家庭のいざこざで潰すようなことはせず、いつも応援、援助してくれた。
これはなかなか常人には出来ぬことであり、本当に善良な両親だと思う。
しかし、それを知ったのは30代の頃で、まだ20代前半のわたしにはただただ家のひんやりとした不穏な居心地が怖かった。
今なら舅姑問題はどの家庭にも多少はあることで、流せるかもしれないが、
敏感で勘が鋭いわたしには、廊下もお風呂場のタイルも、キッチンのテーブルも、どこもひんやりと冷たく、重い冷戦の空気が家中覆っているようで息苦しかった。
帰省した夜、将来や家のことについて、台所で延々と1人で考えていた。
みんなが寝静まった頃だったので10時半から11時の頃だったと思う。
どうしたらええんやろう。。。。
これからどうしたらええんやろう。。。。
親に迷惑をかけているなら、ここに帰って手伝った方がええんかな。。。。
でも。。。耐えられるかなあ。。。。
と答えの出ない、人にも相談しづらい悶々をぐるぐると考えていた時である。
ああ、どうすれば。。。。
目を手で覆い、悲壮感でいっぱいになった。
その時だ。
わたしの左耳のすぐそばで
「はよう、自立しない」
と声が聞こえた。
「えっ。。。。。。」
すぐに後ろを振り返ると、真っ暗な闇が広がるガラス戸だけがある。
一瞬何が起こったかよくわからなかった。
まったくきいたことのない、しわがれた低いお婆さんの声である。
両祖母の声ではけしてない。
ドスのきいた、ちょっとあきれ声の低さだった。
わたしはすぐに仏壇をみた。
うちでは仏壇はみんなの顔と声が聞けるからと、当時台所においていた。
水がある場所に仏壇を置くことはタブーなのだが、家族の安寧や、御先祖と日常も常にあることを考えて祖父が提言したようだった。
台所の北側はお墓がある。
。。。。もしかして、ご先祖さんでは。。。。。
突然の声に驚きつつも、
「こんなに普通にきこえるもんなんだ。。。」
とあまり怖さも感じず、そのまますごすごと2階に上がって眠った。
霊の声といえば、この時限りだった。
今振り返って思うと、やはりご先祖の誰かかと思う。
他に思い当たらないのだ。
声の主は祖父の母(北海道出身)か、よく聞かされていたうちの始祖の女性かのどちらかかもしれないと思うようになった。
江戸時代、よほど困窮したのか元々武家だった女性が、裕福でもない農家に嫁ぎ、女性の家から姓をもらい今につながっている。
始祖の女性の名前を「お元」という。
そして祖父の母(曽祖母)は、10人も産んだ気丈でいい方だったが、
体は小さく弱い方で、お出かけの直前に気乗りがせずドタキャンをするような神経の細さだったと祖母からきいた。
ご先祖だとしたら、わたしはさぞ「ばちあたりもん」であろう。
「こんなところ」呼ばわりをして、家の責任は放棄し出ていったにも関わらず、親に迷惑をかけつつマンガを描いている。
「こんなところ」に帰ってきても、自分の気持ちばかりが大切で、何を行動することもせず、悶々と悩んでばかりいる。
もし自分がご先祖なら、ナヨナヨしまくっている子孫に、一言もの申したい気満々である。
その最大の愛情の言葉が、
「はよう、自立しない」(早く自立しなさい)
であった。
半ばあきれ声にも聞こえたので、本当にあの世で「どうしようもない」「こんな子孫いらん」とあーだこーだ言われていたのだろう。
しかし、その突き放された言葉こそ、わたしが最も欲しかった言葉であった。
誰にも相談できず、長い間1人で抱えて悩み続けていた答えであった。
その答えをくれたのが目に見えない存在だったとは。
家からの軛を断つ提言をしてくれたのが、
他ならぬ長く続いた家のご先祖だとしたら。。。
なんと厳しく、深い愛だろう。
霊というものは、人間以上に人間らしい存在なのかもしれない。
そして、人間以上に、本人の人生を最初から最後までわかっている存在かもしれない。
先日、娘にそのことを話した。
娘はいった。
「お母さん、言い返したらいいのに。
もう今は、家庭もあって自立してますよって。」
ううむ。。。専業主婦が果たして自立なのかは大層疑わしいが、
時は流れて、祖父母の死とともに両親の枷は外れた。
わたしはマンガ家になったあと、いい結婚に恵まれて家に思い悩むことは無くなった。
親にとってもフラフラしていた娘が片付いて、さぞ肩の荷が下りただろう。
実家にストレスなく帰れるようになった。
死というものはすべてを浄化する
という言葉は、林芙美子のお葬式での川端康成の追悼の言葉であるが、
本当にそうだ。
生前、窒息するような緊張感でひどく歪みあっていたものが、死によってマイナスからプラスの存在に転じてくる。
母は、亡くなった祖母から謝られる夢をみて、果報を幾つか受けたらしい。
「はよう、自立しない」
あの言葉は、わたしにとって大きな壁である。
家というものに縛られぬよう、いつひとりになっても受け入れられるよう、
精神的にも経済的にも自由になること。
その答えは、一時期は叶ったように思えたが、
20年近く経った今は、果たせてはいない。
あれだけ大口を叩いてマンガ家になる‼️といって出ておきながら、
今や専業主婦になってしまったわたしを、ご先祖さんはさぞ呆れ返ってみているかもしれない。
ハッタリと逃避は祖父譲りなので、家族に禍根を残すことだけはすまいと思ってはいるのだが。。。。
もう一度あのお婆さんの声を聞きたいと思う。
それはもうないとわかると、なんとも言えずに胸が切なくなる。