俺ガイル3期OP「芽ぐみの雨」を自分なりに解釈してみた
お久しぶりです。サイトーです。
大学の新学期が始まって、オンライン講義によるレポートに苦しめられて、なかなか更新が出来ませんでした。
ですが、どうしても今書いとかないと後悔するだろうなって内容を思いついたので、筆を執った次第です。
今回は、2020年7月9日から放送される「やはり俺の青春ラブコメはまちがっているー完ー」のOP、「芽ぐみの雨」の歌詞を読みつつ、あーじゃねーこーじゃねー書いていきたいと思います。
直接的なネタバレは書きませんが、内容的にどうしてもあっ…(察し)となる部分が出てくるので、最終巻まで読んだorネタバレ気にしない勢以外は読まない方が良いと思います。
予め言っておくと、タイトルにも書いているんですが、あくまでこれは"自分なり"の解釈であり、それを押し付けるつもりはありません。
ですから、ふーんこんな解釈もあるのねとか、これいいねとか、いや原作にわかか?www このシーンは(以下略)とか、各々好き勝手にやってください。過度でなければ誹謗中傷として捉えないので、ご安心をば。
追記1,所々変な表現があったので修正しました〜
ではまず、現段階で明らかになっている「芽ぐみの雨」TV size版の歌詞を確認しましょう。
流れきった文字の後 1人続きを待った みんな知ってる 夢物語の終幕を 飾る決まり文句
めでたしなんてたった四つ文字で 全てをハッピーエンドにして 1人また1人席を立つ
(ハッピー エバー アフター) エンドロールの先は いつまでたっても望んだ 続きを写さない
もしこの物語が終わるのなら 結末は雪じゃなく雨が降ればいい 何故って?顔を上げていられるから ずぶ濡れでもきっと誰かには 芽ぐみの雨だった
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/yanagi-nagi/megumi-no-ame/
俺ガイル1期OP「ユキトキ」や2期OP「春擬き」を聞いたことがある人からしたら、こう感じると思います。
歌詞暗くね!?
俺ガイル完なのに、ハッピーエンドじゃねーじゃん!!
と僕の中の心くんもそう言ってました。
今までの曲が前進しようという意思を感じるものだったのに対して、「芽ぐみの雨」からは、その逆で無理に切り替えて進まなくてもいいんだよ、立ち止まってもいいんだよという憐れみを感じ取れました。
まぁ俺ガイルの登場人物ってめんどくさいしね…仕方ないよね…
あとあれですよね。歌詞だけでも充分に物語性があるので、読むだけでも楽しい(文系にとっては)
個人的には、由比ヶ浜目線or由比ヶ浜のための歌というより、比企谷にとって紛れもなく大切な存在ではあるけれども、1番・最優先でない人達目線もあるのかなって解釈してます。
なんでって?
じゃないと川崎沙希が不憫なんじゃぁ…
原作だとそこそこ出番あるのに、アニメだと結構削られてるし… 二次元の世界くらい良い奴も報われて欲しいんです!!
曲全体の印象と川崎沙希狂信者COはここまでにして、次は部分部分に分けて、自己流の解釈を進めていきます。
流れきった文字の後 1人続きを待った
僕はこの歌詞を聞いて、僕だけがいない街のOPの一コマを思い出しました。
物語の登場人物が私たち読者と同じ目線で、それぞれの青春群像劇を映画や物語のように俯瞰/鑑賞していて、かなりメタな視点だなと感じました。
文字が流れきった後でも続きを待った少年少女は、いったいどういった心情なのでしょうか。
プラスの意味で終わって欲しくない。だからそこに留まっているのかも知れないし、その逆でマイナスの意味で終わりを迎えたくない。だから、後悔やあの時こうしていればなというifを想像していて、その場を立ち去れなかったのかも知れない。あるいはそういうありふれた言葉では表せないその本人にしか分からない独特な感情を持っている可能性もあります。
ですので、この部分は〇〇だ!って断定はやめておきます…個人の解釈に任せると言うやつです。
みんな知ってる 夢物語の終幕を 飾る決まり文句
めでたしなんてたった四つ文字で
全てをハッピーエンドにして1人また1人席を立つ
(ハッピー エバー アフター)
武田砂鉄かな?"言葉"に対する現代社会へのアンチテーゼが滲み出ている一文ですね。
俺ガイルのテーマ(特に文化祭後)のひとつに、
言葉に対する懐疑心・不信感 ってあると思うんですよ。
端的に言うと、言葉にしたからって自分の考え・思いって100%通じるの? 言葉にしないことで表現出来る思いもあるよね的なことです。
更にそれに加えて、ご都合主義に対する皮肉が溢れてるように感じました。
普通のラブコメだったら、主人公とヒロインが恋仲になるハッピーエンドでめでたしになるべきだし、読者もそれを望んでいる。ただ俺ガイルはそれが当てはまらないんですよね。
主人公が"本物"という存在するかどうかも分からない有耶無耶なものを追い求めている訳ですから、仮に読者がもうめでたししてもいいんだよ…?と思っても、作品内のキャラクターの全員が納得はしないはずです。それって"本物"なの?って
特に魔王さんとか……
そういった要素を如実に引き出した、いかにも俺ガイルらしい表現になっていると感じました。
エンドロールの先は いつまでたっても望んだ 続きを写さない
悲しいなぁ… 続きを待った人視点ですよね、間違いなく。
この段階で歌詞冒頭に登場した人が微かに抱いていた可能性も否定されちゃった感じですね。ここ映像化されたら間違いなく泣く。
もしこの物語が終わるのなら
結末は雪じゃなく雨が降ればいい
自分が望む未来はないって分かった上で、それでもなお"もし"って言えるの本当に強いと思います。
そしてこの曲を聞いた人の99.9%がああああああああぁぁぁってなったであろう部分
結末は雪じゃなく雨が降ればいい
ですね。一体、結末ってなんの事やろなぁ…大阪冬の陣じゃなくて、大阪梅雨の陣で決着ついたのかな?(すっとぼけ)
ここでは雪は〇で、雨は〇の比喩だよ!!って明言は避けておきます。その代わりに、物語における雪と雨の役割でもしようかと。。
物語とか歌詞、詩でよく出てくる"雨"とか"雪"って、単なる天候の話だけじゃなくて、舞台装置的な役割、要は明言はしないけど特定のイメージを想像させる力もあるんですよ。雨であれば悲しさや慰め、雪であれば厳しさや切なさ、あるいはロマンティックさみたいな(他にもいろいろあるよ)
でもこの「芽ぐみの雨」における、"雪"と"雨"ってそれだけじゃないように感じました。冒頭でも書きましたが、私はこの歌詞に登場人物のメタ的な目線を感じています。
ですから、原作者あるいは作詞者が誰かを慰めるために"雨"というワードをいれたとしても、登場人物たちはその通りの捉え方をしていないのではないか? と考えています。
この雨は、慰め合いのぬるま湯みたいな停滞を引き伸ばすものではなく、今までにはなかった未来へ進み続けるための新しい可能性が芽生えてくる、恵みの雨としても考えられるんじゃないでしょうか。
"雪"も同様です。この雪は、今後の厳しさや切なさを暗喩したものではなく、雪が地上に落ちてくる途中で溶けて雨になるように、今まで冬のように厳しい関係性だったものが軟化して、昔のようにあるいは以前より更に1歩踏み込んだ関係へと変わっていく、文字通り氷解的なニュアンスを感じとれても、不思議では無いと思います。
何故って?顔を上げていられるから
ずぶ濡れでもきっと誰かには 芽ぐみの雨だった
上記で述べたような捉え方もあるんだなぁ…って思ってもらえれば、この部分の解釈も単に"誰かを慰めるための雨"や"顔を上げておけば涙と雨の違いが分からないから"だけじゃないなって感じ取れると思います。
以上になります。自分もまさかここまで長くなるとは思いませんでした(笑)だってこれshortバージョンだぜ?fullとかこれより長くなるんですか!?!? まぁなんだかんだ言っても「芽ぐみの雨」のfullが出たらまた似たようなの書くと思うので、その時はよろしくお願いします!!
誤字脱字や表現の変更をした際は、記事の冒頭の方でそのような内容を明記しとくので、確認よろです!ではまた、次の機会で〜
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