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【受験生必見!】東大式昼寝勉強法

果報は寝て待て

「田舎の学問より京の昼寝」という言葉がある。田舎でガリ勉するよりも都会で昼寝でもしていた方が学びが多いという意味である。
私のような怠け者が大いに励まされる言葉だ。

私は酒を飲んでは寝転がってばかりだが、少なくとも都心には住んでいる。つまり、労せずして賢くなっていっているわけだ。

都会は情報の雨が降る

京都が都の頃は、都会と田舎で得られる情報量の差はすさまじいものがあっただろう。しかし、ネットが発達し、海外からリモート勤務をする人まで現れた現代でも通用するだろうか?

するのである。確かに現代は「自発的に取りに行く情報」については、都会も田舎もあまり変わらないであろう。インターネット万歳だ。しかし、「自然に入ってくる情報」はどうだろうか?情報取得に関して、都にいるメリットの一つは、取りに行かなくても情報のシャワーを浴びることができることだ。

受動的な情報取得の大きなメリットは、「自分で選んでいない情報を得られる」ことにある。自身の選択した情報にしか触れていないと、視野が拡がらないとこはもちろん、自分の持っているバイアスの強化にも繋がる。学問の主目的の一つが、学びによる気づき、自身の思想のアップデートと考えると、これはいただけない。

都会超完全互換論

ところで、私は一つ間違ったことを書いた。田舎は「自発的に取りに行く情報」についても都会の後塵を拝する。それは、「情報」が文字以外の形態を取る時もあるからだ。文字による情報はどこで、どのような方法で得ても変わらない。しかし、文字以外の情報はいくらでもある。絵画(ネット上の画像と、実物では天地の差)、音楽(生音に勝るものなし)、食べ物(味覚、触覚、嗅覚の刺激はweb上では無理)、文字による情報の最たるものである本ですら、趣向を凝らした製本や独特の匂いなどはネット経由では味わえない。

都会はモノが集まるので、「本物」に触れる機会も田舎よりも多い。そして「本物に触れること」は学習とニアリーイコールである。とは言え、京が田舎の完全上位互換ではない。田舎には、感覚を育む機会の多さで一日の長がある。

うろ覚えのルソー

18世紀スイスの哲学者ルソーをご存知だろうか?氏の著作「エミール」は最も古い教育書の一つだ。エミールで提唱する子育ての舞台は田舎である。子供を田舎で自然に触れさせ、感覚を養い、無駄な情報から遮断する。これを理想の教育とした。「自然に触れ、人間の動物としての感覚を養う」という点では、田舎は都よりも優れた舞台であろう。私はここまで「学問≒情報」を得ることという前提で書いてきたら、もしかしたらある種の情報遮断も学びの道には必要かもしれない。

酒を飲みながら寝転がっていると取り止めもなく考えが浮かび、どうやら結論らしいものは書けない。しかしこの記事を書いている中でも自説に疑問を持ち、覆し、自身をアップデートできたことは、教育のある証拠ではないであろうか?
やはり京の昼寝は田舎の学問に勝る。


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