見出し画像

心躍る羽音


自然科学の本や特集記事のなかで、このごろよく目にするキーワードが2つあります。

ひとつは 「人新世」。
地質の時代区分において、人間の活動が地球環境に影響を与えはじめてからの地質時代を 「人新世」として新たに設けようと提案されたもの。
ですが、ちょうど先月、否決されました。
時期尚早だと判断されたようです。

もうひとつは 「バイオマス (生物量) の減少」 で、とくに激減しているのが今回のテーマ、昆虫です。


   『昆虫絶滅』
          オリヴァー・ミルマン  著
          中里 京子  訳
          早川書房


環境ジャーナリストの著者が、昆虫と人類の理想的な共生社会を探求していきます。

✴︎


デンマーク北ユトランド地方の平坦な農業地帯に躍動感を添えるツバメ。
ムラーはその魅力にとりつかれていた。

ツバメの食欲はすさまじく、ひと組のつがいとその雛たちは、1シーズンにおよそ100万匹の昆虫を食べるという。

ユトランド半島では、膨大な数の昆虫が生息し、農場ごとに50〜60組ものツバメが確認されていた。

ところが、年々昆虫は姿を消しつつあるようにみえ、1980年代から1990年代には、ムラーのような生物学者でなくとも、昆虫の減少に気づく人がでてきた。
「田舎に住んでいる人のほとんどは、虫の数が減ったことがわかっていたよ」。
それは、ツバメをはじめ、昆虫を食べる鳥の数にも影響していた。

1997年、ムラーは軋むフォード・アングリアに乗りこみ、時速60キロまで加速して、2つのルート、1.2キロの区間と25キロの区間を走りはじめた。

そこから現在に至るまでの毎年、5月から9月にかけて同じ道を走っては、フロントガラスに付着した虫の痕跡を丁寧に数え記録していった。

20年以上にわたるその調査によると、短いほうの区間では昆虫の密度が80%も減り、長いほうの道路区間では、減少率が事実上の絶滅に近い97%にまで及んだ。


オーストラリアを拠点とする2人の生態学者が発表したメタ分析論文〔複数の研究結果を統合し、統計的手法を用いて分析する総説論文〕によれば、全昆虫種の40%が世界的に減少していて、3分の1が絶滅危惧種になっているという。

糞虫と並んでもっとも打撃を受けているのが鱗翅目〔チョウやガなど〕と膜翅目〔ハナバチ、カリバチ、アリなど〕で、トンボ目〔トンボやイトトンボなど〕やカワゲラ目などの水生昆虫目も「すでにかなりの割合で種が失われている」。

原因は、生息地の破壊、農薬の使用、外来種、気候変動にあるとし、「このことが地球の生態系に与える影響は、控えめに言っても壊滅的だ」という。

いまや昆虫の避難場所は、騒々しい高速道路の脇にある土手、線路のあいだに生えている草、家がとり残されたあとに生い茂った草地といった、私たちの暮らしのなかで偶然に生まれた緑地であることが、ますます多くなっており、研究者によると、世界の保護区とされる場所でさえ、3分の1以上が、居住地、放牧地、道路、鉄道、夜間照明といった「人間による激しい圧力」 を受けているという。



イングランド南東部のサセックス、このヨーロッパ有数の人口密度の高い地域に約1400ヘクタールの農場  「クネップ」がある。

農場のオーナー夫妻は、長年にわたり、大型の農業機械や農薬に投資して正統派の耕作農業を経営しようと努力してきたが、夏は岩盤のように冬は汚泥のようになる土壌で、利益のでる作物を育てるのはむずかしく、負債は増えていった。
ついに2000年、財政破綻を防ぐために農機具と乳牛を売却した。

その後、生物保護資金を得て農場の一角が耕作地から原野に復元されると、すぐに野生動物が集まりはじめた。

なかでも先陣をきってやってきたのは、昆虫だ。羽音があふれ、膝丈の自生種の草やデイジーのなかを歩けば、一歩ごとにバッタが飛びあがった。

わくわくしたオーナー夫妻は、オランダの生態学者フランス・ヴェラの研究をヒントに、農場全体にわたって作物の栽培をやめ、草食動物を放牧して生態系の改善にのりだした。

農薬を一切使わず、動物たちには抗生物質も化学物質も与えない。
低木の茂みが育ち、枯れ木はそのまま朽ちるに任された。
昆虫にとっての心躍る光景。

いまでは、絶滅危惧種を含め1,800種以上もの無脊椎動物がクネップで確認されていて、その恩恵を得る鳥のなかには、かつてシェイクスピアやキーツに着想をあたえた絶滅危惧種のナイチンゲール (サヨナキドリ) なども含まれている。



とはいえ、こうした場所は世界に散らばっている。
昆虫は、なにかの拍子に、たとえば誰かの肩でひと息ついてしまったがために、安全な場所から連れだされ、化学物質やコンクリートなどの危険にさらされてしまう。
場違いな場所に迷いこめば、ただ生きようとしているその小さな存在でさえ、はたかれてしまう可能性もでてくる。

昆虫は、遺伝子の多様性を守り、より良い食料資源を見つけ、進む気候変動から逃れるためにも、適切な生息地へと移動できる安全な回廊を必要としている。

野生動物の生息地に、移動の安全を確保するためにつくられる、特殊な橋や地下道といった野生動物のための回廊コリドー

昆虫にとってのそれは、野草の生い茂る細長い一片の土地かもしれない。

いま、さまざまな国で、畑の端にある境界や使われていない土地にハーブなどを植える試みが行われている。

提唱した科学者のシュテファニー・クリストマンは、当初疑わしい目で見られていた。
「作物のそばに生えている雑草は、いつになったら金になるんだ」 と。
それが1年も経たないうちに、土地の所有者たちの大喜びに変わった。

なぜならそのとりくみは、野生のハナバチなどさまざまな送粉者を連れ戻し、その生息地が張り巡らされることで収入が増えるばかりか、ある種の捕食性昆虫の増加が、害虫に対する自然の盾となって、化学薬品を散布するためのコストがかからないのだから。


✴︎



地球上で名前が付与された昆虫はおよそ100万種。
この数は、まだ発見されていない種や名前がつけられていない種に比べると、ほんの一部に過ぎません。
人知れず生きる名もなき昆虫が、生態系でどのようなことを担っているかわからないまま、絶滅してしまうこともあります。
「センティネル絶滅」です。
新種の生物が名前をつけられる前に一掃されてしまったエクアドルのアンデス山脈の麓にある尾根にちなみ、そう名づけられました。
昆虫は、私たち動物と植物とをつなぐ生命線でもあります。
気候変動や世界人口の激増がすすむいま、著者のいう 「基本的なレベルで昆虫を大切に思っていることを示す」 ことは、喫緊にとりくまなければならないことだと感じます。


最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。


春ですね。
虫たちの季節がやってきました。
かれらの全身花粉まみれになって夢中で花に潜りこんでいる姿がすきです。
がんばろうという気持ちが芽生えてきます。

次回の本は、そのハナバチたちが主役です。


✴︎

あなたとあなたの大切なひとの
新しい出会いが素敵なものでありますように


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?