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人工知能の黎明を拓いた思考の冒険者/マービン・ミンスキー Marvin Lee Minsky (1927-2016)

前回はジョン・マッカーシーであったので、今回は別の「AIの父」ことマービン・ミンスキーとした。恥ずかしながら彼のことはほとんど知らずにいたので、いま学んだ。前回も思ったが、初期のAI研究で語られたような人間の知能や知性についての探究をもっと知りたい。


マービン・ミンスキーは1927年、ニューヨークで生まれた。幼少期から機械や科学全般に強い興味を抱き、家に並んでいた科学雑誌や機械部品をいじりながら独自の思考回路を育んでいく。絵画や音楽など多彩な分野にも関心を持ち、それらの経験が後に「人間の知能とは何か」を多角的に考える下地となった。

第二次世界大戦後の1940年代後半、ハーバード大学へ進学し数学を専攻。ハーバード在学中から物理学にも触れ、広い視野で学問を俯瞰する姿勢を身につけた。卒業後はプリンストン大学に移り、当時の最先端研究を行う研究者たちと切磋琢磨する日々を送る。若きミンスキーは当時まだ確立されていなかった「知能を機械で再現する研究」に強い関心を抱き、コンピュータがただの計算装置ではなく、人間の認知プロセスの一端を担える存在ではないかと考えるようになる。

MITでの挑戦とAI研究の草創期

1950年代、MIT(マサチューセッツ工科大学)に身を置いたミンスキーは、ジョン・マッカーシーやクロード・シャノンらとともに人工知能(AI)研究を本格的に始動させる。電子計算機のハードウェアが少しずつ進歩していたこの時期、計算機による知能シミュレーションは夢物語のように語られることも多かったが、ミンスキーはそれを理論と実験の両面から実現しようと試みた。

彼は知能を「情報を処理する高度な仕組み」と捉え、そこに数学的手法を適用できると考えた。MIT内にはAI研究を総合的に進める専門の研究所が必要だと感じ、ジョン・マッカーシーらと共同でMIT AIラボ(当初はプロジェクトMACなどの枠組みを通して進行)を設立。そのラボには後に世界的な研究者へと成長する多くの若手が集まり、ロボット工学や認知科学、プログラミング言語の設計など多岐にわたる研究領域が同時並行で展開されることになった。

「Perceptrons」とニューラルネットワークへの影響

1969年、ミンスキーはシーモア・パパートと共著で「Perceptrons」を出版し、初期のニューラルネットワークであるパーセプトロンモデルの数理的限界を論じた。この書籍では、単層パーセプトロンが解決できる問題に理論的な制約があることを厳密に示し、当時の研究者たちに衝撃を与えた。実際、1970年代にはニューラルネットワーク研究が一時下火になる「AIの冬」が訪れたが、これは「Perceptrons」の指摘だけが原因というわけではない。

やがて1980年代以降になるとコンピュータの性能が向上し、複数の層を用いたニューラルネットワーク(多層パーセプトロン)に新たなブレイクスルーが生まれる。深層学習が注目されるようになる2010年代以降、かつての議論は再評価され、ミンスキー自身も「当時は単層モデルの限界を示しただけで、マルチレイヤーや新しいアルゴリズムの出現を否定したわけではない」と振り返ったとされる(参考: The Society of Mind, Marvin Minsky)。

The Society of Mind

1986年、ミンスキーは著書『The Society of Mind』を刊行し、人間の知能を多数のエージェントの社会的集合として捉える考え方を提唱した。これは、それぞれが限られた機能しか持たない小さなモジュール(エージェント)が連携し合うことで、複雑で高度な知的活動が可能になるというモデルである。この「複数の小さな知性が協力し合う」という視点は、その後のマルチエージェントシステムや並列分散処理の概念にも通じる画期的な考え方だった。

さらに、ミンスキーは「You don't understand anything until you learn it more than one way」という言葉を残し、同じ現象や知識を複数の角度から学ぶことの重要性を説いた(出典: The Society of Mind, Marvin Minsky)。単一の方法論や単一の視点に頼らず、多面的に物事を見る姿勢はAI研究だけでなく、認知科学や教育論などにも大きな影響を与えることになる。

人柄と多彩な関心

ミンスキーはラボでの議論を好み、学生や同僚と深夜までアイデアを戦わせることも珍しくなかったと言われる。音楽や芸術に造詣が深く、研究室には自前の楽器が置かれていたというエピソードもある。ピアノを弾きながら突然新しい数理的アイデアを思いつくこともあったらしく、「論理と感性の架け橋を探っているような人」という評価を得ていた。

ロボットアームの研究や、LISPをはじめとする高水準プログラミング言語の開発・普及にも関心を持ち、学生や若手研究者を積極的にサポートする姿勢をとっていた。MIT AIラボの“師匠”として、多くの人々の独創性を引き出すことに喜びを感じるタイプだったとも言われる。

IT技術史における位置づけ

ミンスキーの研究理念は、AI研究のみならずIT全般の進化を後押しした。知能をシステムとして捉え、その構造を分解し、ソフトウェアとハードウェアを統合的に設計するというアプローチは、オブジェクト指向プログラミングや分散システム、ヒューマン・コンピュータ・インタラクションの領域にも示唆を与えている。

MIT AIラボでは一連の先進的プロジェクトが推進され、インターネット草創期のプロトコル開発やコンパイラ設計などにも波及した。こうした枠組みはシリコンバレーの企業や大学研究室にも共有され、現代のIT産業を形成する基盤技術へと繋がっていった。

晩年とその影響

2000年代に入ると、長らく下火だったニューラルネットワーク研究が「深層学習」という形で再び脚光を浴び始める。ミンスキーは自らの研究が初期のニューラルネットワーク論争に関わっていたことを再認識しつつ、「技術は時代の進歩とともに成熟するものであり、常に新しい観点が必要だ」という柔軟な姿勢を崩さなかった。

2016年に88歳で世を去ったが、その理論は今も活き続けている。『The Society of Mind』で示された複数エージェントによる知能観は、マルチエージェントシステムや強化学習、自然言語処理の分野でも基本的な着想の一つとして扱われるようになった。MIT AIラボで育った研究者たちは、今日のIT社会のあらゆる場面で活躍している。

「知能とは何か」「それを人工物で再現するにはどうすればよいか」という問いに対し、ミンスキーは生涯を通して探究を続けた。その探究心は一つの領域にとどまらず、数学、認知科学、ロボット工学、音楽、芸術といった広範なフィールドへ波及している。あらゆる学問を横断しながら“知性”を探り続けた姿勢は、多くの人々にとって刺激的な指標となっている。

ミンスキーが築いた思想と、MIT AIラボを中心に花開いた数々の研究プロジェクトは、現代のディープラーニングや自動運転、ヒューマノイドロボットなどにも結びついている。彼の死後も、その思想は論文や著書を通して共有され、AIの未来を考えるうえで避けては通れない歴史的基盤となっている。


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参照

英語版ウィキペディアのSethwoodworthさん, taken by Bcjordan, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

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