対話型技術がもたらす未来/J・C・R・リックライダー Joseph Carl Robnett Licklider (1915-1990)
J・C・R・リックライダーもまたARPANETの重要人物の一人である。いまのインターネットを連想するようなコンピュータ・ネットワークのビジョンを早期に描いた。
経歴としてたいへん興味深いのは、彼が心理学専攻からコンピュータ・ネットワークに携わるようになったことだろう。そうして「人間と機械の相互作用」の論文を生み、それがインターネットに結実してゆくことはとても興味深い。そしておそらくそれはいま「AIと人間の共生」を論じることにも繋がっているだろう。
幼少期から大学時代まで
1915年、アメリカ・ミズーリ州セントルイスに生まれた少年は、幼い頃から科学や機械への強い好奇心を抱いていた。家にある道具をバラして仕組みを調べるのが日課で、親をしばしば驚かせたという。学校でも物理や数学に熱中していたが、人間の思考や行動原理に対する興味も同じくらい大きかった。大学では心理学を専攻し、「人間の心を科学的に理解すること」と「新しいテクノロジーを社会に応用すること」を結びつけようと模索する学生だった。
第二次世界大戦の期間中、心理学的アプローチは兵士の認知プロセスや判断能力の向上に役立つと期待された。彼もそうした軍の研究に関わり、実験データを収集しながら人間の意思決定プロセスを探求した。大学の同僚は、彼の研究スタイルを「机上の理論だけでなく、人間と機械の相互作用を常に想定していた」と振り返っている(引用元: The Dream Machine M. Mitchell Waldrop)。
研究機関での活躍
戦後、MITやBBNなど当時の先端的な研究所を渡り歩いた。心理学の背景を持ちつつ、コンピュータ分野への関心を深めていたのが彼の特徴だった。1950年代後半、コンピュータはまだ膨大なスペースを必要とする大型装置で、パンチカードや真空管が象徴的な時代である。普通の研究者やエンジニアであれば、その大がかりな機器の操作だけで精一杯になる。しかし彼は、人間が簡単にコンピュータと対話できる未来をイメージし、それを口に出すことをためらわなかった。
この時期、タイムシェアリングのアイデアに触れ、コンピュータリソースを複数のユーザで共有する形が可能だと確信するようになる。まだ大半の人が「高価で巨大なコンピュータは一度に一人の専門家が使うのが普通」と考えていたが、彼は「瞬間的な演算を多くの人が共有できるはずだ」と周囲に説いていた。大学での講演でも、コンピュータの可能性を「専門家の閉じた世界」から「多様な人々の創造や学習に役立つ道具」へと変える必要性を力強く語っていた(引用元: Where Wizards Stay Up Late Katie Hafner, Matthew Lyon)。
ARPAへの参加とARPANETの礎
1962年ごろ、ARPA(後のDARPA)の先進研究プロジェクトに招かれ、コンピュータネットワークの構想をリードする立場に就く。彼は「ネットワークは人間と人間をつなぐ情報共有の基盤になる」と提案した。
ARPANETの初期実験は1969年に始まり、その歴史的瞬間には多くの若手研究者が立ち会った。リーダーシップを発揮しながらも若い研究者のアイデアに耳を傾け、新しい視点を積極的に取り入れた。ある研究者は当時の彼の姿を「自分のビジョンに執着しつつも、常に議論を歓迎する柔軟性があった」と評している(引用元: The Dream Machine M. Mitchell Waldrop)。
「人間とコンピュータの共生」という概念
1960年に発表された論文「Man-Computer Symbiosis」(引用元: Man-Computer Symbiosis J. C. R. Licklider)で、彼の思想が集約されている。人間のパターン認識力や創造力と、コンピュータの高速計算・正確性を組み合わせることで、新たな知的パートナーシップが生まれると主張した。すなわち、人間とコンピュータは対立する存在ではなく、互いの長所を最大限に活かす協力関係を築けるという考え方だ。
のちに「Intergalactic Computer Network」という大胆なフレーズも用いて、ネットワークの将来像を語ったことでも知られる。当時の常識からすれば突拍子もない表現だが、それは地理的・時間的制約を超えて知識や情報を分かち合う社会を見据えていたからこそ生まれた言葉だ。インターネットやWorld Wide Webが広がった現代では、この先見の明に驚嘆する研究者も少なくない。
周囲から見た横顔
彼は「リック」という愛称で呼ばれ、気さくな性格で知られていた。会議の冒頭で「何か新しいアイデアはないか」と周囲に問いかけるのが常で、相手が学生であってもまったく構わなかった。ひらめきを大切にする一方で、同時に複数のプロジェクトに関わりすぎる面もあり、周囲が「ときどきは落ち着いてほしい」と思うこともしばしばだった。だが、多くの人が「彼の周りにいると不思議とアイデアが膨らむ」と証言し、彼の存在自体がイノベーションの触媒として作用していたのは確かだ(引用元: Where Wizards Stay Up Late Katie Hafner, Matthew Lyon)。
晩年と遺産
1970年代後半からは官公庁の研究マネジメントを離れ、再び大学に戻って学生の指導や教育プログラムの改革に力を注いだ。自らの体験を惜しみなく語り、ネットワーク技術の可能性と倫理的課題の両面を指摘することで、多くの若者の視野を広げた。彼が描いた「人とコンピュータの対等なパートナーシップ」というビジョンは、1980年代にPCが普及し始めるとさらに具体化の度合いを増していく。
1990年にこの世を去ったが、その功績は「インターネットの父の一人」と称される形で現在も語り継がれている。ARPANETがインターネットへと進化し、さらにクラウドや人工知能、さらにはVRやARといった新分野へと広がっている今でも、彼の根本思想は色あせない。「コンピュータは人間の能力を拡張する道具であり、対立する存在ではない」という考え方が、多くの技術者や研究者を突き動かしているからだ。
その生涯を通じて追い求めたのは、単なる技術的革新ではなく、知性を高めるための人間と機械の「共生」だった。情報社会が成熟するほどに、この思想はより多くの分野に影響を与えている。彼が語った「脳とコンピュータの相互補完関係」は、今後のITがさらに発展する未来においても、大きな道標として存在し続けるだろう。