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フリーソフトウェア思想を築いた先駆者/リチャード・ストールマン Richard Matthew Stallman (1953-)

フリーソフトウェア思想を形作り、激烈に推進したのがリチャード・ストールマンである。GNUプロジェクトを立ち上げ、フリーソフトウェア活動家としてさまざまな論争を巻き起こしてきた。フリーソフトウェアとオープンソースソフトウェアは違うので注意されたし、である。

彼はその運動家らしい過激な言動が有名である。しかし、フリーソフトウェア思想に対して社会が様々な形で行う圧倒的な圧力、重力のようなものについては自分も感じるところがある。何もしなければ物事は自然とクローズドになっていこうとする。彼のようなストロングスタイルがなければ支えられないものなのかもしれない。


幼少期と学生時代

リチャード・ストールマンは1953年3月16日、ニューヨークのマンハッタンで生まれた。幼少期から数学や自然科学に強い関心を持ち、とりわけ論理的思考を伴うパズルや計算機に興味を示していた。子ども時代の彼は友人と遊ぶよりも図書館で過ごすほうが好きだったといわれ、読書量の多さが際立っていたという。両親の離婚など家庭内の問題もあって、学校という集団生活に馴染むより、個人の探究を優先する場面が多かったようだ。自宅にコンピュータはなかったが、近隣の大学施設や図書館を活用してプログラミングの資料を集め、独学でコードの読み書きを試みる熱中ぶりを見せていたと伝えられる。

高校を卒業後、1970年にハーバード大学へ進学し、物理学を専攻する。数学にも深く興味を抱いていたが、コンピュータへの情熱はさらに強まり、しばしば大学の計算機センターに足を運んではプログラムを組み上げていた。ハーバード在学中に優秀な成績を残し、1974年に卒業。その後、マサチューセッツ工科大学(MIT)の人工知能(AI)ラボにプログラマーとして籍を置くようになる。

MIT AIラボでの経験

1970年代のMIT AIラボは、ハッカーズカルチャーの揺籃の地とも言える場所だった。ラボには「コードを共有する」という文化が根付いており、個人や企業の権利意識を前面に出すのではなく、むしろソフトウェアを開かれた財産として捉える雰囲気があった。ストールマンはこうしたラボの空気に魅了され、深夜まで端末と向き合って作業を続ける同僚たちと共に、自由にアイデアを交わし合う生活を送るようになる。

当時のMIT AIラボにはTECOのマクロを拡張したエディタが存在し、これが後の「Emacs」の原型となった。ストールマンもその改良に積極的に参加し、各種マクロを統合して強力な編集環境を生み出していく。ところが、外部企業との共同開発プロジェクトが増えてくると、ラボ内にもソフトウェアを非公開化する動きが出始め、ストールマンはこれに強い反発を示した。彼にとってソースコードの自由な共有は当たり前のことであり、それを制限する行為は受け入れがたいものだった。

GNUプロジェクトの誕生

1983年、ストールマンは「GNUプロジェクト」の立ち上げを宣言する。GNUは「GNU's Not Unix」の略であり、「Unixと互換性を持ちながらもUnixではない」という意味が込められていた。誰もがソースコードを閲覧し、改変し、再配布できる完全フリーなOSを作るという壮大なビジョンは、商用ソフトウェア中心の世界観に一石を投じるものだった。翌年にはMITを正式に離れ、プロジェクトにフルコミットする道を選ぶ。

フリーソフトウェア財団とGPL

GNUプロジェクトの実現を支援するため、1985年にストールマンは「フリーソフトウェア財団(FSF)」を設立する。FSFはソフトウェアをめぐる法的・社会的な問題に取り組むと同時に、GNUプロジェクトの活動拠点としても機能した。ここでストールマンは「GPL(GNU General Public License)」の策定を主導し、ソフトウェアを自由に使い、コピーし、改変できるだけでなく、改変後のソフトウェアも同じ自由を保持することを義務づける仕組みを生み出す。これは「コピーレフト」と呼ばれ、ソフトウェアが企業によってクローズド化されるのを防ぎつつ、コミュニティベースの開発を永続させるための重要な発明だった。

GNU/Linuxとストールマンの主張

GNUプロジェクトではCコンパイラや各種ライブラリ、ユーティリティなど、OSの基盤を形づくる重要なソフトウェアが開発された。これらが後にLinuxカーネルと結合され、「GNU/Linux」として世界に広がっていく。ストールマン自身は一貫して「単に“Linux”と呼ぶのではなく“GNU/Linux”と呼ぶべきだ」と主張してきた。GNUのコンポーネントがなければシステムとして成り立たなかったからであり、フリーソフトウェアという原動力をクレジットすべきだというのが彼の考えだった。

エディタ戦争と個性的な言動

ハッカーコミュニティで有名になった「エディタ戦争」では、ストールマンはEmacsの利点を強く主張する立場に立った。対するVi派も根強い支持を集めており、両陣営の論争はソフトウェア文化の象徴的なエピソードとして語り継がれている。ストールマンの言動は常に個性的で、講演会で説教僧の衣装に身を包み「St. IGNUcius」と名乗るなど、パフォーマンスを交えてフリーソフトウェア思想を広める手法でも知られている。

一方、他者の意見に強く反論しがちな性格から、物議を醸すことも少なくなかった。だが、それ以上に「コードを共有することは社会の進歩につながる」という信念が根底にあり、その熱意の強さはハッカー仲間や支持者たちを惹きつけた。彼の当時の活動やMIT AIラボの様子は「Hackers: Heroes of the Computer Revolution」(著者: Steven Levy)にも記載があり、その中で型破りな姿が描かれている。

その後の活動と影響

ストールマンの取り組みは、LinuxディストリビューションからGitHubをはじめとするOSSプロジェクトまで、多岐にわたるフリーソフトウェア文化の基盤を作ることに大きく寄与した。彼は「オープンソース」という用語については「自由ソフトウェア」とは根本的に異なる概念だとたびたび指摘してきた。オープンソースが主に“実用的な優位性”を説くのに対し、フリーソフトウェアはあくまで「社会的・倫理的な自由」を最重視するというのが彼の主張だ。ただし、技術的には両者が連携し合い、フリーソフトウェアがオープンソースを活性化し、またその逆も成立してきた歴史がある。

プライベートではバッハなど古典音楽を好み、フルート演奏に没頭するときは子どものような集中力を発揮するともいわれる。また、コミュニケーションにおいては不器用な部分が指摘されてきたが、フリーソフトウェアに関する議論となると火がついたように熱弁を振るう。こうしたストールマンの個性や生い立ち、活動の詳細は「Free as in Freedom: Richard Stallman’s Crusade for Free Software」(著者: Sam Williams)にも詳しく収録されている。

一時期、個人的な発言が原因でフリーソフトウェア財団の理事職を退任した時期もあったが、後に復帰。ソフトウェアの利用者に自由を与えるべきだという彼の軸は揺らぐことなく、IT技術史において欠かせない存在となっている。プログラミングコミュニティやオープンソースムーブメント全体がここまで拡大した背景には、ストールマンが創り上げてきたフリーソフトウェアの思想と運動が大きく寄与していることは間違いない。


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参照

Thesupermat, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

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