見出し画像

アジャイル開発にわかによるクリエイティビティについての覚書

別に目新しいことは何もない。アジャイル開発に関わる経験の少なかった人間が最近思っていることの覚書である。

エンジニアリング-クリエイティビティ

ぼくはずっとものづくりに関心がある。クリエイティビティの発露はぼくにとってずっと大切な労働条件である。

そんなぼくがITエンジニアとして生きていると、「どうしてこんな仕事を選んでものづくりに関心ないの?」と思うことがある。これは技術に対する関心ではなく、何かを生み出し変えることへの関心のことである。運用面の問題意識なり不安なりはわかる。しかし「アジャイル開発!」「ドメイン駆動設計!」などと叫ぶのに、話を聞いてどうもものづくりに関心がないと感じると困惑してしまう。

まあ冷静に考えれば、"工学的-創造的"は相反する性質を持つだろう。ここで"工学的"と述べているのは、理論的学問と比した応用科学的な側面を指していると考えてほしい。再現性のある問題解決を目指す学問としての性質のこと。一方で”創造的”は特殊性があり、破壊的/暴力的で安定からほど遠い性質のことをそう呼んでいる。

ぼくの知っているITエンジニアや業務内容を思い浮かべると、この構図で割とイメージがつく。これはDevOps的な"開発-運用"の問題意識と同根であろう。たぶんITエンジニアリングという仕事は"工学的"と"創造的"の両側面を持つ。

などと言いつつ、これって別に狭い問題系として把握する必要もない、とすぐ思う。"工学的-創造的"の対立が工学に現れるのは、現実の問題に取り組むからであろう。

クリエイティビティ-アジャイル開発

アジャイルソフトウェア開発宣言について、「経営者の手からソフトウェアを取り戻して、開発者の主体性=創造性を復活させよう!」という運動の宣言にみえるところがある。その運動は必然的にソフトウェア開発プロセスに柔軟性を求める。

そもそもどんな行為であれ、それが創造的であれば最初から完全な設計などできるわけがなく、創作にはプロセスとしての柔軟性が求められる。臨機応変にやり方を変えたり、アウトプット自体を変更したり、スケジュールや予算を調整したり。むろん、一定は設計もしなくては困ってしまうのだが、ものづくりには常に不確定性があるため、完全に制御しきれることもない。

いや、むしろクリエイティブな行為とはその不確定性リスクの波を楽しくサーフィンすることなのではなかったか。自分自身こそが最大最悪のクローズドな制約であって、人間の多様性が生みだす不確定性リスクたちこそがクリエイティビティの源泉ではなかったか。

アジャイルソフトウェア開発宣言はITエンジニアリングにフォーカスしているが、ものづくり一般のクリエイティビティについて述べているように見える。おそらくドメイン駆動設計しかり、この先もこうした復古的なムーブメントを繰り返すのだろう。人間のものづくりにまつわる、"工学的-創造的"の対立はなくならないからだ。

アジャイル開発-政治性

むろんクリエイティビティばかりに思想が偏るひとや業務は危険なオブジェクトである。前述の通り、創造的とは”破壊的/暴力的で安定からほど遠いもの”とした。ステークホルダーの調整なしに仕様変更されたら皆が困る。レビュー中に「俺は絶対に正しい」と暴れられても困る(それがいくら結果的に正しくとも)。

いまの肌感覚としては、アジャイル開発プロセスにおいてこのあたりの暴力・権力調整が鍵なのだろうと思っている。エンジニア-PdM-経営層との調整戦略。それが果たされないときにクリエイティビティが暴走する。暴力的にクリエイティビティが発揮されすぎるか、あるいはその暴力性を恐れて全くクリエイティビティが発揮されない、という形で。

このあたりの問題意識に対して、既にアジャイル開発というかリーン開発というかのプラクティスたちは解決策を示している。しかし暴力・権力の制御は、ITエンジニアという人種がとかく嫌いな政治そのもの。むろんプラクティスは人による政治を避けて機械的なプロセスで解決しようと呼びかけるのだが、それらのプラクティスを"政治介入"というモチベーションで理解しないときにアンチパターンが生まれるのではと感じている。

政治性-エンジニアリング

エンジニアリングにおける"工学的-創造的"という対立構図を考えたが、現実世界でもその間を調整するものが政治と呼ばれるものだろうと思われる。そういうものをシステマチックに制御するためのIT開発プロセスのプラクティスたちが提案されている。

ぼくはアーキテクチャ論が好きで、DevOps/SREといったプラクティスが好きだ。クリエイティビティを高めることを、工学的にマネージしようとする技術がとても好きだ。その点において、アジャイル開発も結構悪くない、と思うようになってきた。

まあ、人々に誤解を振り撒くことを許容している雰囲気はなんとかならないものかと思うけれども、しかしそれもまた現実の政治と相似形な気もしており、人間の業のようなものかなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?