「AIの父」の一人でありLISPの生みの親/ジョン・マッカーシー John McCarthy (1927-2011)
「AIの父」とされる人物は複数いる。その一人がジョン・マッカーシーだ。「AI」という名称をつくり、LISPをつくった。しかしタイムシェアリングシステムへ与えた影響を知らなかった。LISPのことも(先輩諸氏の声は漏れ聞きつつも)きちんと把握できていないところがあり、この連載を通じても整理してゆきたい。
幼少期から学生時代
1927年にマサチューセッツ州ボストンで生まれたジョン・マッカーシーは、移民家庭のもとで幼少期から多様な文化や思想に触れる環境にあった。両親は労働運動にも関心を持ち、家庭内では社会的な議論が絶えなかったという。幼いころから数学の問題を独学で解き、周囲が理解できないような高度な内容も短期間で習得した。
高校を卒業した後はカリフォルニア工科大学に進学し、主に数学と物理の基礎を固める一方で、当時新興だったコンピューター技術にも興味を示した。大学での研究は理論的な厳密さを追究する傾向が強く、後にAI研究にも通じる思考スタイルを育んだ。
ダートマス会議とAI誕生
大学院へ進む過程でダートマス大学にも籍を置き、指導教官とともに数学や計算理論の研究を続ける。1956年、当時画期的な集まりだったダートマス会議に参加し、ここで「人工知能(AI)」という言葉を初めて明確に用いた研究企画を提案したとされる。同会議にはマービン・ミンスキーやクロード・シャノンといった先駆者たちが集い、コンピューターによる知的活動の可能性が大いに議論された。マッカーシーは「いずれコンピューターが人間の認知的タスクを実行する時代が来る」と強く主張し、このビジョンが後のAI研究の方向性を定めた。
MIT時代の貢献
ダートマス会議の後、MITでの研究活動を本格化させる。ここでは、タイムシェアリングシステムの構想を先取りする形で、複数ユーザーが同時に1台のコンピューターを利用できる可能性を探った。従来のバッチ処理中心の時代に、インタラクティブに計算資源を共有するという考え方は当初は革新的すぎるとも言われたが、エンジニアたちが結集して実装に向かうと、多くの大学や研究機関での計算環境が飛躍的に向上する。
一方で、マッカーシー自身はプログラミングの基盤となる理論の確立に傾倒し、より抽象度の高い視点からソフトウェアを捉えようと試みた。この考え方は後のLISP開発に直結し、人工知能を研究するうえで必要不可欠な表現力をコンピューターに与えるきっかけになった。
LISP言語の開発
1958年ごろから始まったLISP言語の開発は、マッカーシーにとって大きな転機だった。数学的記法とリスト構造を組み合わせたこの言語は、再帰的な処理を自然に実装できる特性を持ち、当時のAI研究が必要とするシンボリック演算に最適化されていた。後にSchemeやCommon Lispなど多くの派生言語が生まれたことからも、LISPの設計思想の深さがうかがえる。
また、LISPのガーベジコレクション機能は当時としては画期的で、プログラマーが手動で行っていたメモリ管理を自動化する道を切り開いた。この仕組みは現在の主流言語にも取り入れられ、メモリ管理モデルの在り方を大きく変えた。
スタンフォードとSAILの創設
1962年にスタンフォード大学へ移り、Stanford Artificial Intelligence Laboratory (SAIL) を立ち上げる。ここでは、学生や若手研究者を巻き込みながら先鋭的なプロジェクトを実行し、ロボット、自然言語処理、音声認識などを含む多岐にわたる研究を推進した。工学と数学、さらに認知科学をも交えた学際的な取り組みが展開され、コンピューターによる知的活動の可能性を示す多くの成果が生まれた。
1971年にはTuring Awardを受賞し、その頃すでにAIの「父」のひとりとして国際的な評価を確立していた。大学での講義や論文執筆、各国の学会発表などを通じて、彼が打ち立てたLispやタイムシェアリングの概念は各地へ波及し、次世代の研究者たちを刺激した。
思想と名言
マッカーシーは論理的思考を重視する人物で、しばしば辛辣とも思える言葉で周囲を鼓舞したり挑発したりする一面を持っていた。「He who refuses to do arithmetic is doomed to talk nonsense(算術を拒否する者は、無意味なことを語る運命にある)」という言葉を残したとされ、データや数値に基づかない推論や議論を忌避したことがうかがえる (『AI: The Tumultuous History of the Search for Artificial Intelligence』 Daniel Crevier)。一方で、オンライン議論も好み、晩年にはインターネット上で自らのウェブサイトを使い、若い世代の研究者やエンジニアと技術的・哲学的な論戦を繰り広げる姿が見られた。
晩年と死去
実証的なアプローチを好みつつも、想像力と数学的厳密さを両立させたマッカーシーの姿勢は、後のAI研究の流れを大きく方向付けた。並行して、学校教育の現場にコンピューターを導入する活動や、社会問題にコンピューター技術を応用する動きにも関心を示した。あらゆる研究において機械の可能性を追求するだけでなく、それらを人間社会の課題解決に役立てようとする姿勢が人柄にも表れていた。
2011年10月24日、スタンフォードで死去。享年84。生涯を通じて掲げてきた「知性の本質を探究する」というテーマは、AIの進化に大きな影響を与え続けている。Lispを含めた彼の数々の功績は、現代のプログラミング言語やAIアルゴリズムの根幹にも脈々と受け継がれ、コンピューター科学の歴史を語るうえで欠かせない存在となっている。
(引用元: 『AI: The Tumultuous History of the Search for Artificial Intelligence』 Daniel Crevier)
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