「すべてのデモの母」NLSの衝撃/ダグラス・エンゲルバート Douglas Carl Engelbart (1925-2013)
ダグラス・エンゲルバートはNLSの伝説的なデモで知られ、そのデモは"The Mother of All Demos"と呼ばれている(当時〇〇の母という言葉が流行っていたらしい)。NLSはその後OSが持つGUIに多大な影響を与えた。
「スティーブ・ジョブスのスティーブ・ジョブス」などという奇妙な呼称も見つかる。デモの評判だけでなくマウスの採用など、現代のITエンジニアにとってはわかりやすい例えではある。
幼少期
1925年、アメリカのオレゴン州ポートランドに生まれる。家族は比較的質素な暮らしだったが、幼いころから周囲にある機械を分解して構造を探るのを楽しむ好奇心旺盛な子どもだった。学校の成績は平均的とされる一方で、理系科目での成績は高く、また図書館で文学や哲学の本まで手当たり次第に読むなど、多方面への興味を示していた。この多彩な関心が、後の革新的思考の土台になったと言われる。
第二次世界大戦が勃発すると海軍に入り、レーダー技術士として従事した。戦時下でのレーダー運用を通じて、迅速かつ正確に情報をやり取りする仕組みの重要性を痛感したことが、のちに「人間の知的活動をどう拡張するか」というテーマに目覚めるきっかけになる。退役後、オレゴン州立大学に復学して電気工学を専攻。研究分野の選択においても「人と機械の協調」を見据える視点が早くから芽生えていた。
青年期と研究の始動
大学卒業後、大学院でも電気工学やコンピュータの応用研究に携わり、まだ大型コンピュータがごく限られた機関で運用されていた時代に、いかに人間の知的作業を機械が支援できるかを試行錯誤し始めた。やがてスタンフォード研究所(後のSRI International)に参画すると、研究のテーマとして「人間の知性を補強するシステム」を本格的に追求し始める。
当時の計算機はもっぱら数値演算が主体で、研究者や技術者がプログラムを入力するにもパンチカードを使うような段階だった。彼は「機械を計算に使うだけでなく、人間の思考やコミュニケーションの拡張にも応用できるはずだ」というビジョンを強く持ち、周囲にも熱っぽく語っていた。しかし、多くの人はあまりに先進的なその発想を理解できず、開発資金の獲得も容易ではなかったという。
画期的なシステムと「マウス」の発明
SRI在籍中、彼が率いる研究チームは「oN-Line System (NLS)」と名付けた革新的なインタラクティブ・コンピューティング環境を開発した。NLSは文書の編集やハイパーテキスト的なリンク、オンラインでの共同作業など、後のパーソナルコンピュータ文化を予見させる要素をいくつも内包していた。テキストを互いにリンクし合い、瞬時に参照できるしくみは、まだ誰も実用レベルで考えていなかった時代に提示されたもので、のちにインターネットやWebの思想に大きな影響を与える。
このNLSを操作するためのデバイスとして、いわゆる「マウス」を考案したことも特筆に値する。初期のプロトタイプは木製の箱にホイールやスイッチを備えただけのシンプルな装置だったが、手を動かすだけで画面内のカーソルを自在に操れるという発想は、それまでのコンピュータ操作の概念を根底から変える突破口となった。後にGUIが普及する過程で、マウスは不可欠な入力装置として世界中に広まることになる。
1968年の伝説的デモ
1968年12月9日、サンフランシスコで開催されたコンピュータ関連の学会において、彼は「The Mother of All Demos(すべてのデモの母)」と呼ばれる歴史的なプレゼンテーションを行う。スクリーン上を動くカーソルによるテキスト編集、ハイパーテキストの操作、遠隔地とのリアルタイムコラボレーション機能など、それまでの常識を超えた未来像を一挙に披露し、参加者を驚愕させた。
当時はパンチカードによるバッチ処理が主流で、コンピュータをリアルタイムに操作すること自体が珍しかった。その中で、マウスを使い、画面を分割し、文章同士をリンクさせながら共同で作業するという実演は、確かに「未来を先取りした」一大ショーだった。しかしながら、プレゼン後すぐに社会的・商業的な成功を収めたわけではなく、資金確保や周囲の理解を得るうえでは依然として苦難を伴った。
人柄と挑戦
彼の人柄については、温和な口調と開かれた姿勢が印象的だったと言われる一方、研究内容や方向性に対しては一切の妥協を許さない厳しさを持ち合わせていたという。「使いやすさだけが唯一の基準なら、人々は三輪車に乗り続け、二輪車を試そうとしないだろう」というフレーズが、インターネット上では彼の名言のひとつとして広まっている。実際に誰が言い始めたかは明確でないが、「革新的なテクノロジーを追求するには、一時的な使いやすさを超えた挑戦が必要だ」という考え方を示しているとも言え、彼の研究姿勢と重なる部分が大きい。
さらに、長時間の研究に没頭するだけでなく、休息や散歩などで意識的に頭を切り替える習慣を大事にしていたとも伝えられる (『Bootstrapping: Douglas Engelbart, Coevolution, and the Origins of Personal Computing』Thierry Bardini)。このようなライフスタイルの中で、ふと目に留まる事象や自然界の仕組みから新しい着想を得ることも多かったようだ。
晩年とレガシー
1960年代から70年代にかけて提示した数々のアイデアは、その時点では時代をあまりにも先取りしすぎていた面がある。しかし、パーソナルコンピュータの普及、インターネットの浸透、Webブラウザによるハイパーテキストの実用化などが次々と現実化するにつれ、彼の構想の先見性が再評価されるようになる。晩年には多数の賞が贈られ、多くの場で「コンピュータ革命を象徴する発明家の一人」として顕彰された。
2013年にこの世を去ったが、マウスやハイパーテキスト的なリンク構造、オンラインコラボレーションなど、彼が蒔いた種は今のIT社会の基盤としてほぼすべての場面に根付いている。人間の知的活動を支援するためにコンピュータを使う、というビジョンは、人工知能や拡張現実などが台頭する現在でも古びるどころか、ますます重要性を増している。
未来への影響
彼の生涯は「人間の知性をいかに拡張するか」を突き詰める連続のようでもあり、その思想は21世紀のIT社会においても生き続けている。使いやすさや生産性を高めるだけでなく、「人間と機械が相互に学び合い、高め合う」ビジョンを提示することが、真のイノベーションを生むという考え方は、現在のスタートアップ企業や研究者コミュニティにとっても普遍的な教訓として受け継がれている。
常識を超えたアイデアを世に示し、それをわずかでも体験可能な形にして見せるという彼の姿勢は、イノベーションを生み出すうえで極めて重要な要素だ。単に概念を語るだけではなく、実際にプロトタイプを作り、世界に先んじて提示することで、周囲の思考や研究方向を大きく変えてしまう力があることを証明し続けた。その衝撃は歴史的な1968年のデモに集約されているが、そこに至るまでの地道な研究の日々と、揺るがぬビジョンこそが真の原動力だった。
現代のIT社会は、個人が手軽に強力な計算資源を操れるだけでなく、世界規模での協調やコラボレーションが当たり前の時代になった。その礎を築いた彼の功績が持つ意味は、今なお色褪せないどころか、技術がさらに高度化していくなかで一層際立っていると言える。死後もなお、彼の示した「人間の知性の拡張」というテーマは普遍的な課題として残り続け、革新的な開発者や研究者を鼓舞し続けている。
マガジン
前回の記事
参照
SRI International, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で