驚異の頭脳が拓いたITの未来/フォン・ノイマン John von Neumann (1903-1957)
エイダ・ラブレスの次は、「コンピュータの父」とも呼ばれるフォン・ノイマンとした。現代コンピュータアーキテクチャの基礎原理であるプログラム内蔵方式デジタルコンピュータ=「ノイマン型コンピュータ」の提唱を筆頭に、コンピュータの歴史において外すことができない存在。と、いうよりも科学の歴史において決して外すことのできない20世紀を代表する天才科学者である。
一方で、クリストファー・ノーランの映画『オッペンハイマー』において彼が描かれなかったことは、彼のマッドな側面のためだという話がある。つまりこの大人物にこの文量はあまりに足りなさすぎる、ということがいいたい。この天才に関心を持った場合(自分もそうだ)には、最後に付記した解説書などを手に取ることをおすすめしたい。
ジョン・フォン・ノイマン(Hungarian: Neumann János Lajos, 1903-1957)は、現代の計算機科学と数学の発展に多大な影響を与えた天才的な科学者である。彼の仕事は量子力学からゲーム理論、さらには初期のコンピュータ設計にまで及び、IT技術の礎を築いた一人として知られている。その生涯は驚くほど多彩で、同時代の人々を圧倒するほどの記憶力やユーモア、そして異才ぶりに彩られていた。
幼少期とブダペスト時代
フォン・ノイマンは1903年、ハンガリーのブダペストで銀行家の家庭に生まれた。幼少期から数学に天賦の才能を示し、6歳の頃には8桁の割り算を暗算でやってのけたという逸話がある。彼は膨大な書物を暗記できるほどの驚異的な記憶力を持ち、「本をめくりながら全文を記憶することができた」と同時代の知人が証言している。社交界とも縁が深かった家庭環境のおかげで語学にも秀で、ドイツ語やフランス語、英語を次々と習得した。
渡米と学問の花開き
若くして博士号を取得した彼は、ヨーロッパの大学で教鞭をとりながらも、アメリカの学術界に強い興味を持っていた。1929年にプリンストン大学に招かれ、のちに新設された高等研究所(IAS)の創立メンバーに名を連ねる。この頃から、数学の純粋研究だけでなく、量子力学や統計学、そして当時まだ黎明期にあった計算機の可能性に関心を広げていった。
第二次世界大戦前後の科学技術政策の動乱期、フォン・ノイマンはロスアラモス研究所にも参加し、マンハッタン計画などの大規模プロジェクトにおいて理論面の助力を果たす。彼のアイデアは核兵器開発だけでなく、その後のコンピュータ・シミュレーション技術にもつながっていく。
計算機科学への革新的貢献
フォン・ノイマンがIT史に残した最大の貢献は、いわゆる「ノイマン型コンピュータ」の提唱である。この構造は、プログラムとデータを同じメモリに格納し、制御装置がそれらを順番に読み取り実行する仕組みを採用する。現代のコンピュータは多種多様に進化したものの、その原理は今もなお多くの部分でノイマン型コンピュータに基づいている。
また、ゲーム理論の分野ではオスカー・モルゲンシュテルンと共著である『ゲームの理論と経済行動』(1944) を発表し、人間の意思決定を数学的に解明する新たな視点を打ち立てた。この理論は経済学だけでなく、政治学、社会学、さらにはAI研究にまで波及し、IT技術者やプログラマが非協力ゲームや交渉アルゴリズムを考える際にも基礎となっている。
人物像と興味深いエピソード
フォン・ノイマンといえば、猛烈な計算速度だけでなく、その独特の人柄でも有名だ。仕事場には常に活気があり、雑談の最中に難解な数式をさらりと解き明かしてみせる一方で、ユーモアを忘れずに周囲を和ませた。彼の口癖だった「数学が単純だと信じられないならば、それは人生がどれほど複雑かを知らないからだ」という言葉は、数学者たちの間でもよく引用される(引用元: The Man from the Future: The Visionary Life of John von Neumann Ananyo Bhattacharya)。
あるとき、研究所の廊下で誰かが「大きな数字の暗算をできるのは、ただの詐欺だろう」と冗談まじりに疑いをかけたところ、フォン・ノイマンはその場で電話帳を丸ごと暗唱してみせたと言われる(引用元: John von Neumann: The Scientific Genius Who Pioneered the Modern Computer, Game Theory, Nuclear Deterrence, and Much More Norman Macrae)。この逸話は真偽のほどを定かにしないまでも、彼が並外れた頭脳の持ち主だったという印象を強く残している。
晩年とその影響
晩年、フォン・ノイマンは米国原子力委員会の委員として政策立案にも関わり、核戦略からコンピュータの応用まで多様な分野でアドバイスを行った。1957年に53歳でこの世を去ったが、その業績は数学や物理学の枠を超えて多くの学問領域に浸透している。
とりわけITにおいては、彼が初期設計や理論を体系化したおかげで、後世の計算機開発が飛躍的に加速した。さらにゲーム理論はインターネットを介したオンライン市場やアルゴリズム・トレーディングにも利用されており、彼の先見性は今なお生き続けている。彼がいなければ、私たちが今日当たり前のように使っているコンピュータやデジタル技術が、ここまで急速に発達することはなかったかもしれない。
「若者よ、数学においては理解する必要はない。ただ慣れるだけだ」という彼の有名な一言は、難解な問題を前にくじけそうになる研究者やエンジニアたちへの激励にも聞こえる。天才的才能とユーモア、そして飽くなき好奇心を兼ね備えた彼の姿は、現代のIT社会を先導する象徴的な姿であり続けるのだ。