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詩と数学が生んだ世界初のプログラマー/エイダ・ラブレス Ada Lovelace (1815-1852)

ITの偉人たちに関する毎日連載をはじめることにした。

ITエンジニアがIT技術史に関心が薄すぎるのではと思うことが多い。科学はそのプロセスからして歴史からなる。アイデアの源泉でもある。しかしこうは言ってみるものの、自分もよく知らないままだ。だからこそはじめる。

最初は世界初のプログラマーとされる女性、エイダ・ラブレスだろう。Aから始まることもあるが、IT業界の未来を考えるたび、彼女の存在はこの先も参照されるはずと思う。彼女はなんとあの詩人バイロンの娘である。彼女の経歴や発言を見るとその影響を感じてしまうところがあるが、そうした数学と文学の間から「世界初のプログラマー」という話が出てくること自体、フィクションめいた話である。


幼少期と家庭環境

エイダ・ラブレスは1815年12月10日、イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(一般には「ロード・バイロン」として知られる)の娘として生まれた。母は数学や科学に理解のあるアン・イザベラ・ミルバンクで、エイダは正式にはオーガスタ・エイダ・バイロンと名付けられた。両親の仲はあまり良くなく、エイダが幼いころに別居が決まったため、彼女はほぼ母親のもとで育てられることになる。父であるバイロンは詩人らしく文学を愛していたが、母は数学教育を重視したことで、エイダは幼い頃から厳格かつ論理的な訓練を受けた。

この家庭環境は、エイダの知的好奇心を大いに刺激した。幼少期から機械的な仕組みに興味を持ち、12歳のときには自分で翼を設計しようと図面を描き、鳥の解剖学的構造まで研究したと言われている。周囲からは奇妙にも思われたかもしれないが、母の積極的な数学教育と、父譲りの創造力が混ざり合った結果とも言えよう。

教育と数学への情熱

エイダは、当時としては非常に恵まれた教育環境に身を置くことができた。特に女性が高度な数理教育を受ける機会が限られていた19世紀のイギリス社会において、彼女が学問に専念できたのは母の努力と財力の後押しが大きい。彼女の才能を見抜き、数学や天文学を教えたのがメアリー・サマービルという女性科学者で、エイダはこの師のもとで高等数学を学びながら、新しい概念や学説への興味を深めていった。

数学に熱中する一方で、彼女は詩や音楽にも強い関心を寄せていた。創造的発想と論理的思考という、一見相反する要素を同時に育んだことで、後に「コンピュータの創造的側面を見通す先見性があった」と評されるようになる。エイダは後年、自身の思考法を「詩的科学」と称し、「私は詩のような想像力で数学の原理を捉えようと努めている」と記した(『Ada, the Enchantress of Numbers』Betty Alexandra Toole)。

チャールズ・バベッジとの出会い

エイダの人生を大きく変えたのが、「解析機関(Analytical Engine)」を構想した数学者チャールズ・バベッジとの出会いである。バベッジは当時、誤差の少ない計算を行うための「差分機関(Difference Engine)」の開発を進めていたが、さらに高度な汎用計算機構想である解析機関に思いを巡らせていた。1833年、エイダがまだ10代の後半だったころ、上流階級向けのサロンでバベッジが差分機関の試作機を公開した場に彼女が参加し、二人は意気投合する。バベッジは後に、「あの若き女性(エイダ)は、私の機械の美しさを理解できる希有な人物だ」と語ったと伝わる(『The Bride of Science: Romance, Reason, and Byron’s Daughter』Benjamin Woolley)。

解析機関のメモと“最初のプログラム”

当時のバベッジの解析機関は理論段階にあり、多くの科学者にはその全貌が理解されにくかった。エイダは、この革新的な装置が単なる数値計算の道具ではなく、抽象的なシンボル操作が可能な汎用機械になる可能性を見出した。1843年、エイダはイタリア人数学者ルイジ・F・メナブレアの論文(バベッジの解析機関に関する内容)を英語に翻訳するとともに、大幅な「注釈」を付け加えた。これらの注釈には、いまでは“プログラム”と呼ばれる手続き的指示が含まれており、解析機関がどのように数値を操作し、どのようなアルゴリズムで結果を得るかが詳細に記されている。

この注釈は原論文の3倍近い分量で、「AからG」までの7つの節に分けられていた。特に“注釈G”は、ベルヌーイ数を計算するためのアルゴリズムを具体的に示した部分で、一般に“世界初のコンピュータプログラム”と評価されることがある。エイダ自身は、「解析機関は音楽や芸術をもシミュレートできる潜在力がある」とまで言及しており、これは後世のコンピュータ科学者たちに多大な影響を与えた。

パーソナリティとエピソード

エイダはしばしば「才能にあふれ、かつ突飛な行動を厭わない女性」として語られることがある。数学的・論理的思考に長けていた一方、ギャンブルへの傾倒や膨大な借金など、波乱万丈な一面もあった。彼女は競馬の結果を数理モデルで予測しようと試み、大失敗に終わったという逸話も残っている(『Ada Lovelace: The Making of a Computer Scientist』Christopher Hollings, Ursula Martin, Adrian Rice)。

また、エイダは自身の父であるバイロンとの文学的つながりを否定しようとする一方で、詩的な想像力を手放すことはなかった。彼女の手紙やメモには、「自分の脳は、単なる人間的レベルを超越しているかのように感じる」という内容が散見され、そこにはある種のプライドと強烈な個性が表れている。彼女は自分を「詩と科学の架け橋」として捉えており、それが周囲から奇妙な人と思われることも厭わなかったようだ。

晩年とその影響

エイダは晩年、身体的な病気に苦しみつつも研究の手を休めず、バベッジとの交流や数学的思索を続けた。しかし1852年、わずか36歳で子宮がんによりこの世を去る。晩年には母との関係が再び緊張し、看病もままならなかったと言われるが、死の直前には父バイロンと同じ墓所に埋葬されたいと希望を示したことが記録されている。

彼女の死後、その業績が大きく知られるようになったのは20世紀半ば以降である。コンピュータ科学の黎明期にあたる1930~40年代に、電子計算機の可能性を追求する科学者たちがエイダの注釈を再評価したことで、彼女の先見性が再認識された。後にアメリカ国防総省が開発したプログラミング言語「Ada」は、彼女の名にちなむものであり、これは“プログラミング言語の祖”としてのエイダを現代に伝える象徴といえよう。

エイダ・ラブレスが残した功績は、単に“世界初のプログラマー”という称号にとどまらない。彼女が見据えていたのは、計算機が論理操作だけでなく、音楽や芸術など抽象的分野までも取り扱う潜在力である。それは現代のAI研究やマルチメディア技術など、創造性を伴うコンピュータの使い方にまでつながるヴィジョンだった。エイダの人生は決して穏やかではなかったが、その想像力と論理が結びついた独特の才能が、20世紀以降の情報技術の展開を支える基盤を形作ったといっても過言ではない。

彼女自身が「私は科学を、あらゆる創造力と結びつけるのだ」と書き残したように(『Ada’s Algorithm』James Essinger)、エイダ・ラブレスは文芸と科学の狭間で生まれた新しい思考のあり方を体現していた。その先駆的な精神は、今もなお「コンピュータが生み出す創造性とは何か」を問い続ける現代のIT研究者たちを鼓舞し続けている。

ヘッダ画像:アルフレッド・エドワード・シャロン, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

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