未来の通信を変えた革新的視点/ロバート・テイラー Robert William Taylor (1932-2017)
ネットワークの歴史に踏み込みたい。インターネットの原点とされるARPANETにおいて重要な役割を果たした一人がロバート・テイラーだ。またXeroxのパロアルト研究所やDECの研究所で、いまも利用されている数々の先端技術の研究を推進した。
ARPANETがむろん多くの理由はありつつも「あー、めんどい!」という気持ちから発生しているというのは個人的にいい話である。面倒さを過大に見て一大プロジェクトにまで広げてしまう。エンジニアらしい話ではないか。
幼少期と大学時代
1930年代にテキサス州ダラスで生まれたロバート・W・テイラーは、幼い頃から機械いじりに没頭した。身近にエンジニアがいたわけではなかったが、ラジオや家電製品を分解し、仕組みを理解しようとする好奇心が人一倍強かったという。数学や物理を得意としていたが、人間の心理や行動原理にも関心が向かい、大学では心理学と工学をまたぐ分野を探究するようになる。のちに「コンピュータは人間同士をつなぐ道具である」という考え方を示す下地は、こうした学際的な視点から育まれたようだ。
大学院を経て、当初は心理学の要素を取り入れた研究職を志すつもりだったとも伝えられているが、時代は大型コンピュータの登場期を迎えていた。人と機械を効果的に結びつける方法を模索するうち、通信やインタラクションの技術的可能性に惹かれていく。周囲はあくまで計算ツールとしてのコンピュータに注目していたが、彼は「これをメディアとして活用すれば、人間の知的活動を拡張し合えるのではないか」と考え始めていたとされる[参考: 『Where Wizards Stay Up Late』Katie Hafner, Matthew Lyon (1996)]。
NASAでの試行錯誤
1960年代半ば、テイラーはNASAにおいて人的要因(ヒューマンファクター)や制御システムの研究に携わった。ちょうど有人宇宙飛行のプロジェクトが活発化しており、宇宙飛行士が複雑な環境でも的確に操作や判断ができるよう、機器と人間のインタフェースを整備する必要があった。当時のNASAには優秀な科学者とエンジニアが集い、分野の垣根を越えた議論が盛んに行われていたが、それでも拠点間の情報共有は簡単ではなかった。
宇宙開発は膨大なデータやシミュレーション結果を伴うが、それを施設同士で交換するにはテープや書面を経由するのが一般的だった。テイラーは「遠隔地同士が瞬時につながるネットワークがあれば、研究効率は飛躍的に高まるはずだ」という発想を持ち始める。しかし、NASA内部には必ずしも「計算機を通信に使う」という認識が広がっておらず、その後の転身によって新たな舞台へ踏み出すことになる[参考: 『Where Wizards Stay Up Late』Katie Hafnerら]。
ARPAにおけるARPANETの始動
NASAを去ったのち、アメリカ国防総省の先進研究計画局(ARPA)の情報処理技術部門(IPTO)へ移ったのが1960年代後半である。そこでテイラーはディレクターとして、複数の大学や研究機関を結ぶネットワーク構想に資金と指揮力を投入する立場になった。研究者とのコミュニケーションに端末を何台も使い分ける不便さを感じ、「一つのネットワークで全てをつなげばいいのではないか」と考えたとされるエピソードが『Where Wizards Stay Up Late』(1996)に描かれている。
このアイデアこそが、ARPANET(アーパネット)誕生の大きな動機となった。ARPANETは異種のコンピュータをパケット交換技術によってつなぎ、地理的に離れた研究者同士が同じシステム上で情報を共有できる環境を実現しようとする試みだった。テイラーはJ. C. R. リックライダーとともに、1968年に「The Computer as a Communication Device」という記事を発表し、「コンピュータは単なる計算装置ではなく、コミュニケーション媒体として活用されるべきだ」と主張した[参考: 『Science and Technology』(1968年発表論文) ほか『The Dream Machine』M. Mitchell Waldrop (2001)]。後にインターネットへと発展するビジョンが、すでにこの段階で示唆されていたわけである。
Xerox PARCでのパラダイムシフト
ARPANETの基盤作りを進めたテイラーは、1970年代にXeroxがパロアルトに設立した先端研究所PARC(パロアルト研究センター)へ移籍し、新たなプロジェクトを率いた。Xerox PARCは高度な研究者を自由闊達に動かすことで有名な組織で、GUIを搭載したAlto、イーサネットによる高速通信、レーザープリンタなど、後世に大きな影響を及ぼす技術が多数生み出された。
一方で、こうした実験的研究を支えるためには明確なリーダーシップと資金配分が欠かせなかった。テイラーは研究者同士の対話を促し、週に一度のミーティングやオープンなプレゼンテーションを奨励しながら、それぞれの技術的アイデアが横断的に結びつく可能性を模索した。「ディーラーズ・オブ・ライトニング(Dealers of Lightning)」の著者マイケル・ヒルツィクによると、PARCではアルト用のグラフィカルな操作体系やネットワークシステムが活発に試されていたが、社内のビジネス部門には当初理解されず、テイラーのような研究部門のトップがイノベーションを守り抜く役割を担ったという[参考: 『Dealers of Lightning』Michael Hiltzik (1999)]。
DECと後半生の活動
Xerox PARCでの成功を後にして、テイラーは1983年にDigital Equipment Corporation(DEC)のSystems Research Center(SRC)を立ち上げる。ここでも優秀なコンピュータサイエンティストを集め、分散システムや高性能コンピューティングの研究を推進した。ARPANETが徐々に拡張され、インターネットという形で世界に普及していく過程を間近に見つつ、彼は「ネットワークによって人々の情報共有と協調作業が進む未来」が既定路線であると確信していたようだ。
SRCではModula-3などのプログラミング言語の開発や、多人数で同時編集が可能なコラボレーションツールなどが検討され、インターネットの普及期に向けた研究プラットフォームの役割を果たした。テイラーは具体的なプロダクトの詳細まで指示するタイプではなかったようだが、メンバーに対して「ただ高速な計算を追うのではなく、人間が豊かにつながることに焦点を当てろ」という理念を繰り返し語っていたとされる[参考: 『Dealers of Lightning』でも一部触れられているエピソード]。
興味深いエピソードと理念
ARPAのオフィスに複数の端末が並び、接続先ごとに切り替えを余儀なくされていた時期、「端末の山を一つにまとめるにはどうすればいいと思う?」と同僚を前に問いかける場面があったと言われる。周囲は電話線や高額な回線費用の問題をあれこれ挙げたが、テイラーは「複数のシステムをまたぐ手間こそが、研究効率を阻害している一番の課題だ」と即座に返したという[参考: 『Where Wizards Stay Up Late』Katie Hafnerら]。これがARPANETの動機づけになったという話は、インターネット史を語る上でしばしば引用される逸話である。
また、ARPA時代に共同執筆した論文「The Computer as a Communication Device」(1968)では、計算機を単なる数値演算マシンではなく、人間同士が共同作業を行うプラットフォームと位置づけていた。その中で「ネットワークが社会を変える可能性」についても端的に言及し、通信インフラの将来的な発展を予見する内容が含まれている[参考: 同論文本文、および『The Dream Machine』M. Mitchell Waldrop]。
IT技術史への大きな足跡
テイラーは2017年4月13日に逝去した。ARPANETから派生したインターネット、PARCで生まれたGUIやネットワーク技術は、今日のパーソナルコンピュータやスマートフォンに至るまで、広範な影響を及ぼしている。ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイといった当時の先駆者たちと並び、「コンピューティングを対話の手段として進化させた重要人物」と評価される理由は明白だ。
『Where Wizards Stay Up Late』(1996)では、テイラーが強く主張した「人間がコンピュータを通して結びつくことで生まれる相乗効果」に注目し、インターネット草創期の精神を支えたリーダーとして描いている。パーソナルコンピューティングという概念がまだ定着していない頃から、コンピュータネットワークの潜在力を説き、組織を横断する研究体制を築こうとしたその先見の明は、現在のデジタル社会にも通じる普遍的な発想といえる。
Xerox PARCでの豊富な資金と自由な気風、DEC SRCでの先端研究の推進がなければ、インターネットとパーソナルコンピュータの発展はもう少し遅れていたかもしれない。実際には数多くの研究者やエンジニアが関わり、重層的に積み上げてきた成果が今の情報社会を作り上げているわけだが、その要所要所でテイラーが指し示した「ネットワーク中心のパラダイム」は大きな指針となった。計算機科学が一部の学術コミュニティにとどまらず、生活のあらゆる場面へ溶け込んだ背景には、この先駆者が描いたビジョンと行動があったと言えるだろう。
ヘッダ画像:Gardner Campbell, CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons