この物語は人間が作った――「風のクロノア」が小学生の私に教えてくれた”作り手”の存在
まだ小学3年生だった私にとって、ゲームは「とても面白いおもちゃ」でしかなかった。仕組みはよくわからないけれど、ソフトを入れて横のスイッチを押せば、楽しい時間が始まる。
コミカルなキャラクターを操作して、ステージを進んでいくアクションゲームが好きだった。兄が持っていた、ドンキーコングやクラッシュバンディクーを借りてプレイしていた。
そうして毎日、1時間があっという間に過ぎていった。
■生まれて初めて泣いたゲーム
私の #心に残ったゲーム は、「風のクロノア」(PlayStation/)だ。がっつりネタバレするので、気になる人は自衛してほしい。
主人公は犬をデフォルメしたようなデザインの、明るく素直なキャラクター「クロノア」。幼馴染であるリングの精「ヒューポー」とともに、身の回りに起こった異変の正体を確かめるべく冒険に出る。遠い昔に封印された闇なる王「ガディウス」が復活し、世界に復讐しようとしていることを知ったクロノア達は、いろいろなキャラクターと出会い、助け合いながらガディウス討伐に向かう。
概ねこのようなストーリーだ。ファンシーなオリジナル言語にかわいらしいキャラクターデザインも相まって、一見すると子供向けのシンプルなゲームに思えるだろう。しかし大人の心をも動かす力を、このゲームは持っていると思う。
物語中盤、クロノアはガディウスの手下によって、いつも静かに見守ってくれていた「じっちゃん」を失う。家をも壊す攻撃がじっちゃんに直撃する姿を見、急いで駆けて行くクロノア。しかし、それすらも敵によって阻まれる。メタ的な説明をするとここが4面のボス戦に当たるわけだが、その戦闘BGM「Baladium's Drive」が作品内屈指の神曲と評価されている。「風のクロノア」のゲーム実況では、ほとんどの実況者が「曲を聴いていたい、けれど急がないとじっちゃんが…!」と葛藤する場面だ。
【ちょっと脱線】Baladium's Driveについては語り始めたらそれこそ一晩が明けるので、この曲を作ったナムコのサウンドクリエイター(※当時)高橋コウタ氏本人による振り返り記事だけ置かせていただきます…
なんとかボスを倒したクロノアはじっちゃんの最期を見届け、一度は絶望するが、再びガディウス討伐に向かうことに。ここがクロノアにとっての一番の壁であり、それを乗り越えて成長する名シーンだ。しかし、エンディングで再度大きな絶望が彼を襲う。
ガディウス、そしてガディウスが復活させてしまった悪夢の化身「ナハトゥム」も討伐し、世界に平和が訪れた頃。一緒に長旅をしてきた相方・ヒューポーによって、衝撃の事実が明かされる。それは、「クロノアは別の世界の住人」だということだ。ガディウスやナハトゥムの脅威から世界を守るために、ヒューポーが別の世界から呼び寄せたのがクロノアだったのだという。
世界が平和を取り戻したことで、異物であるクロノアは強制的に元の世界に戻ることとなる。じっちゃんの最期のときにも、そばで寄り添ってくれたヒューポー。そんなヒューポーすらも、クロノアは失った。
クロノアが元の世界に帰らされるシーンで、9歳の私はボロボロに泣いた。当時の私にとって、ゲームは「悪い敵をやっつけて、みんな幸せに暮らしました、めでたしめでたし」というエンディングを迎えるものだった。そこには達成感と爽快感しかなかった。
それが、このゲームはなんだ。なんなんだ。こんなに悲しい結末をクロノアに迎えさせるなら、クリアなんてしない方がよかったんじゃないか。クロノアは何のためにここまで頑張ったのだ。ヒューポーは一体どんな気持ちでクロノアと過ごしてきたのだ。
一気にどん底に突き落とされたような気持ちで、スタッフロールを見ていた。そのときに、「ああ、この人たちが、この物語を作ったんだ」とふと思った。
■この大人たちが作ったものに、こんなに泣かされた
それまでスタッフロールは、正直言って「小難しい情報」だった。そもそもスタッフロールの名前とゲームが結びついておらず、まともに見ないことがほとんどだった。
ゲームとはおもちゃのようなもの。おもちゃには、いちいちデザイナーや企画担当の名前など書いていない。それと同じで、ゲームに対しても「人が作っているもの」という感覚はなかった。
さすがに風のクロノアの世界が実在しているとは当時の私も思っていなかったが、そもそも現実か創作かなんて感覚もなかった。しかしスタッフロールを見ながら、「ゲームを作るにはたくさんの大人が関わっていて、ストーリーも、絵も、音楽も、全て人の手で作られているんだ」と気付いた。この感覚をもう少しわかりやすく言語化できたらいいのだが、座標軸が1本増えたとしか言いようのない変化だった。
そうして、私は改めて疑問を抱いた。「ならばなおさらなぜ、彼らに救いを与えなかったのか。じっちゃんが死なない展開にだってできたはずだし、みんながみんな幸せな結末だって、作れたはずだ。わざわざ悲しい物語をつくって、プレイヤーをこんな風に泣かせる必要があるのか」と。
このときの私が考えられたのは、せいぜいそのくらいだ。それだってここまでは言語化できていない。今だからいろいろな言葉で説明できるだけで、当時はただ、やるせなさを凝縮したような気持ちでいた。
どうにも納得がいかなくて、私は2周目を始めた。すると、今度は全ての展開が1周目と違って見えた。ヒューポーと出会うシーンは、ヒューポーによって捏造されたものだと、今度の私は知っている。クロノアが親し気に話しているじっちゃんは、もうすぐ死んでしまうと私は知っている。
そして4面のラスボス。絶望するクロノアを、今度は客観的に見る自分。どこか置いてけぼりな気持ちで、それでも自分の手で、絶望に向けてクロノアを操作しなければならない。一周目のエンディングで味わったやるせなさを、今度はプレイ中ずっと味わうことになった。
私は風のクロノアを、何度も何度も周回した。どうしても納得がいかなかった。どうにかして、クロノアに幸せになってほしかった。それでも隠しエンディングなどはなく、私がクリアした回数だけ、クロノアは悲しい別れを迎えた。
次に私は、このゲームをつくった例の大人たちのことが気になった。何回目かのクリア後、じっくりとスタッフロールを見た。肩書が英語で書かれていたのでよくわからなかったけれど、本当にたくさんの名前が連なっていた。
この人たちが、この悲しい物語をつくった。いったいどうやって?どんなふうに?なんのために?
小さな私にとって、ゲームは「仕組みはよくわからないけど、とても面白いおもちゃ」だった。けれど「風のクロノア」をプレイして以降、「人間が、何らかの想いを持って作ったもの」になった。
今思えば、私にとってあれは、初めて作り手の存在を意識したできごとだった。そこからもう数年すると、「好きな作曲家」「好きなライター」「好きなメーカー」といった感覚が生まれ、ズブズブとオタク的な楽しみ方にハマっていくことになる。そしてそれは、ゲームに限らず音楽や漫画、イラスト、動画…あらゆるクリエイティブに広がっていった。
人が心動かされたコンテンツは、全て人の手によって作られたもの。風のクロノアは、そのことに気付く前に私がプレイした最後のゲームであり、そのことに気付いてからプレイした最初のゲームである。