「ツルツルになった歌」 ―ツルザラエッセイ(1)―
大みそかにNHKの“紅白”をパラパラと観た。
だいたいが知らない歌なのだが、時折昔の歌が登場する。
聞いていると一つ気づいたことがあった。
最近の歌詞には、愛とか未来とか世界といった概念的な言葉が多い。それに比べて、以前の歌詞には具体的な描写が多い。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で 海鳴りだけをきいている」といった具合だ。
人の様々な思いを歌に託すのはいつの時代も同じだ。しかし、託し方が違う。
「お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい」これなんかもっと具体的だ。
ぬるめの燗や、あぶったイカのような日常の本当に小さなことに託された思いが、その歌を聞いた人に人生の折々の大事な場面、体深く残っている感慨を想い起こさせ、歌を口ずさませる。
小さなことがらや、ちょっとした情景、その具体性が大勢の人を感動させ、共感を呼び起こさせるのだ。それは日々の生活のひとコマを多くの人が共有し、そこにたくさんのことが凝縮されているから、それぞれ自分の体験の中で、思いをふくらませることができるのだと思う。芭蕉や蕪村の名句も具体的な写生だ。狂言や浄瑠璃、歌舞伎などの古典が私たちに感動を与えるのも同じだろう。時代を超えた普遍性を持つのだ。
最近の歌とそれに感動する若者も、共有すること、共感を覚えているという点では同じなのだろう。ただ、共有することに生活感がない。
今や酒の燗をすることもイカをあぶることも滅多に無い。そんな面倒なことをしなくても、何でも簡単に手に入る。
じゃあ一体何を共有しているのかなと思ってしまう。共有できるのは「もの」ではなく、それを得るための手間や、そこに至る過程ではないのか。手間ひまかけたり苦労したり抜きの共感は底が浅くはないか。生き物としての人間が本当に共感と言えるのは、身体、五感を使って得た体験、感覚ではないのだろうかと。
今年になって急にメタバースに関する記事が増えた感じがする。ゲームを通した共感、VRを通した共感もあっていい。しかし、それだけでは結局「生きることの共有」にはなっていない。それでは、SNS上で片言隻句にバズるのと変わらないのじゃないかと思う。私の言葉で言うと、人間関係のツルツル化だ。
今の時代、イカをあぶらなくてもいい。湯を沸かし、3分待ってカップ麺を作るのでもいい。そういった日常のちょっとした手間、作業がなくなることはないし、そこを大事にしたい。
日々の生活のザラザラ部分が人間の観察力や想像力や感性の基礎を作るのではないか。そして、そのザラザラをこなす中に生まれる襞を共有することが社会にとって大事だと思う。
今の日本人は世界の中で見ても、幸せと感じている人が少なく、相談できる相手も少ないという統計がある。メディアが「つながり」を喧伝する一方で「孤独」が政治課題として取り上げられる。
「漠然とした不安」という言い方もよく聞く。経済的な問題が背景としてあるにしても、どれも日々の生活と人間環境のツルツル化、すなわち具体的に生きることとその共有が減ってきたからではないだろうか。
政治家も経済人もメディアも、ことあるごとに「人材育成」と言う。政府は「デジタル田園都市国家構想」でデジタル人材を230万人育成するという。
一体、人材の「材」とは何の材料なのだろうか。会社や経済にとって役に立つ「材」ということなのだろうか。それでは本末転倒だ。これでは日本が幸せと感じない、相談相手がいない、国から脱することは難しいと思う。国家構想と言うのならば「材」の前にまず生き生きとした「人」を育てることが先決だ。
“紅白”自体はNHK演出のカラ騒ぎという印象がますます強くなった気がしたが、何年か後には日本で歌われる歌詞に具体的な描写が増えた!というような国家構想をザラザラ仲間と一緒に考えたい。