「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出⑲』
「勇気」
小学校の入学式は僕にとって特別な日になった。
式が終わって、僕と母さんも体育館の外に出た。
校門にはたくさんの人だかりができていて、みんな門の横にあった桜の木と一緒に写真を撮りたくて順番待ちをしてたんだ。
その年はまだ満開くらい花が残っていた。
僕と母さんもその列に並んだ。
待っている間、僕の母さんも、周りにいた親子も、口々に“桜が今日まで散らずに残っていてくれてよかったわね”とか、“春らしい写真が撮れたわね”とか言っていた。
“きれいね”とか、”晴れてよかった”とか、“入学式らしい写真が撮れたわね”とか、誰もがそんなことを言っていた。
他の人たちがそうしていたように、僕と母さんも次に並んでいた人に写真を撮ってもらった。
帰り道、僕は校門から少し離れた場所にその“親子”を見つけた。
「桜があってよかったねぇ」
小学校には桜が1本しかなかった。
その人の隣には僕と同じ黒いランドセルの新一年生が立っていた。
“桜があってよかった”
その言葉がとても印象的だったんだ。
親子に見えたその二人を、僕は子供ながらに「間違えた」と思った。
それはその女の人が僕の母さんよりも年上に見えたからだ。
その人に手を繋がれていた1年生を、僕は“子供らしくない”と感じた。
あの日、“唯一の桜”を眺めていた霧島の表情は、僕の胸を“ツンとさせた”。
うれしいのか、悲しいのか、悲しいとすればなぜ悲しいのか‥
みんながみんな、あの青い空のように晴れ晴れとした気持ちで満ち溢れているその日に、あいつは―――ばばちゃんの言葉にも何も答えず、ただじっとその桜を見ていたんだ。
僕はその日からずっと霧島のことが気になっていた。
あの子とお友達になりたいと思った。
生まれて初めて、自分から友達になりたいと思った。
僕がやっと霧島と同じクラスになれたのは、3年生のクラス替えの時だった。
うれしかった‥!
やっと、同じクラスになれた‥これでやっと話ができる、やっと友達になれる――!
僕は家に帰ってすぐに母さんに報告した。
「母さん!夢が叶った!」
「今日はお祝いだよ!」
って、僕は居ても立っても居られなかった。
クラス替えのあの日、僕は本当に、本当にうれしかったんだ。
けれど、それから数ヶ月経っても、僕はきっかけを掴めずにいた。
1学期、僕の席は一番廊下側の、ちょうど真ん中くらいの席で、霧島は窓側の一番後ろの席だった。霧島は人気者だったから、休み時間になるとすぐにクラスの女の子たちに囲まれちゃうんだ。僕が入る隙間なんてこれっぽっちもなかった。
給食の時間も、女の子たちが競って霧島の近くを陣取っていた。
その輪の中で霧島はいつも、つまらなそうに窓の外を眺めていた。
放課後になると霧島は誰よりも早く、いつの間にかいなくなっていた。
準備が遅い僕は一緒に帰ることすらできなかった。
せっかく同じクラスになれたのに、僕は霧島に話し掛けるどころか近付くことさえできなかったんだ。
霧島はきっと、あの頃は僕の存在にすら気づいてなかったんじゃないかな。
毎日何人もの女の子たちに囲まれて、にぎやかなグループの真ん中にいた霧島は、けれどいつでも退屈そうに見えた。
周りの子から顔を背け、頬杖をついてぼんやり窓の外を眺めている様子は、まるでそこに居ないようにも見えた。
側に行けない僕は、自分の席から女の子たちが何を話しているのかを聞いていることしかできなかった。
みんな霧島にいろんな質問をしていた。
あいつがなにも答えなくても、ひとつも反応しなくたってへっちゃらで、一人一人が勝手にしゃべっている感じだった。
僕は自分ではどうしたらいいか分からなくて、それでもいつも“その時”がくるのを待っていた。
体育の授業のグループ分け、遠足のバスの席や班決め、次の席替え‥僕はいつか霧島と話すチャンスがきますように、って、お祈りしてた。
壁新聞のグループが一緒になりますように、社会の発表をする班が一緒になりますように、掃除当番が一緒になりますように‥ってね。
そんなある日の昼休み、“その時”は突然やってきた。
“霧島くんっていい匂いするよね!”
それは、霧島の周りにいたたくさんの女の子の中から聞こえた。
その得意げな一言が、初めて霧島の視線を動かした。
あの子の言葉を皮切りに、周りの女の子たちがいっせいに騒ぎ出した。
“ほんとだいい匂いする!”
“私だって知ってたもん!”
半ば言い争うように、始まってしまったんだ。
“なんの匂い?”
“どうしてこんないい匂いするの?”
“香水付けてるんだ!”
“なんの香水?”
“なんで香水付けてるの?”
昼休みの教室は大騒ぎになっちゃって、僕は内心ドキドキしていた。
胸がざわざわして、じっとしていられなくて、僕は不意に教室の花瓶の水を取り替えに席を立った。
戻って来て、窓際の先生の机の上に花瓶を置いて、その騒ぎはまだおさまっていなくて。
今度は別の女の子が、
“霧島くんてかわいいよね!!”
って大きな声で言い放った。
それで一気にみんなの注目を集めて‥そこからはまた、いろんな言葉が飛び交い始めた。
色が白くてお人形さんみたいだとか、目が大きくてまつ毛が長いとか、髪が黒くてキレイだとか、白目と黒目がはっきりしてるとか‥
とにかく女の子たちのキャーキャー言う声がさらに盛り上がっちゃったんだ。
僕はもう気が気じゃなかった。
あの騒がしい声が飛び交う中で、霧島がどんな顔して座ってるのかと思ったら‥
“ラベンダーだよね!”
僕は咄嗟に叫んでいたんだ。
“今だ”と思った。
けれど僕は自分の声の大きさ驚いて、その場で立ちすくんでいた。
すると女の子たちがいっぺんにこっちを振り向いて、その瞬間、人だかりの塊が二つに割れて、その先に座っていた霧島と目が合ったんだ。
初めてだった。
体の底からドキドキが突き上げた。
霧島の大きな目がこっちをじっと見ていて―――離れた場所にいたのに、僕はすっごく緊張していた。
心臓が生き物みたいに勝手にばくばく動いて、足もいうこときかないくらいガクガクしてた。
それは入学式のあの日からずっと、ずっと待ちに待っていた3年越しの待ち望んでいた瞬間だった。
それが、ついに叶ったんだ。
初めて自分から話しかけたから、僕は自分で自分に驚いていた。
あの時の僕は、完全にハイになってたと思う。
僕は先生の机の横に立ったまま、一番後ろの席の霧島に向かって言った。
“ぼくもラベンダー好きだよ”
“お母さんが家でいろんなハーブを育ててるんだ”
“ラベンダーは夏に刈り取って家の中に吊るしておくんだよね”
“乾いたらタンスの中に入れたり靴箱に入れたりテレビの部屋に飾ったりしてるよ”
”いろんなことに使える万能ハーブだってお母さんが言ってたよ”
僕は一方的にしゃべった。
霧島の視線に捕まって、まるで言い訳みたいに言葉が出てきた。
クラス中の視線が僕に集中していた。
やがて女の子たちの興味は一気に“ラベンダー”に移った。
誰も僕には見向きもしなくなった。
教室の後ろでは女の子たちの競争が始まっていた。
“私知ってる!”
“おみやげにもらったことある!”
“私だって知ってる!”
“うちのママもハーブやってるもん”
僕はしばらくの間緊張で固まったまま、それ以上何もしゃべれなかった。
でも女の子たちの興味が自分から逸れた隙に、そぉっと教室を出て行く霧島を見て、心底ほっとした。
僕はその後の授業も上の空だった。
気分が高揚して、うれしくて、怖くて、ワクワクして、緊張していた。
5時間目の授業が終わるのが待ち遠しかった。
帰りの会の終わりの礼が済むと同時に、僕は廊下に飛び出した。
そしたら霧島もちょうど廊下に出たところだった。
僕はすぐには声が出なかった。
しばらく霧島の後ろ姿を見送って、廊下の突き当りの階段を降りるところで、
“霧島!!”
消えかけた霧島に向かって、やっと叫んだ。
さっきよりももっと大きな声だった。
“一緒に帰ろう!!”
僕の声は廊下の一番端まで届き、霧島の足を止めた。
僕は足を動かして、霧島の側へ駆け寄った。
「ぼくの家、欅の森なんだ!霧島は?」
霧島は僕の顔をじっと見ていた。
僕は霧島のことを知っていたから、その視線がとても新鮮に見えた。
「霧島の家は?どこに住んでるの?」
霧島はあの家を“ばあちゃんち”と言っていた。
「椴の森」
樫小から歩いて1時間くらいかかると言っていた。
楡の森と欅の森も、同じくらい離れている。
それでも僕らは、その日から毎日一緒に帰った。
あの日は僕の2つ目の記念日になった。
それからあっという間に夏休みがきて、僕らは毎日一緒に遊んだ。
僕は小さい頃から植物が大好きだったから、ばばちゃんに植物のことをたくさん教わった。
ばばちゃんの庭には植物がたくさん植わっていて、ラベンダーは僕らの肩くらいまである大きな株だった。
お薬になる植物のこともたくさん教えてもらった。
風邪の予防になるエキナセアは乾燥させてお茶にする。うがい薬になるタイムはお酒に浸けておくんだ。お肉料理に使うローズマリーはお化粧にも使うんだって‥
そんな時、霧島は大抵興味なさそうに縁側で昼寝をしていた。
初めて月見山に連れて行ってもらった時はとても感動的だった。
そこは霧島が小さい頃から大切にしていた場所。
山の頂上にあるその空間は、何もない、何でもない野原だけれど、広くて、居心地が良くて、空がすごく近くて、世界で一番素適な秘密基地だった。
“ここは僕らの月見山だ!”
あの日、僕は初めて霧島の笑顔を見た。
うれしいのか、さみしいのか、どちらともつかない‥
あの時のあいつの笑顔を、僕はずっと忘れない。