「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出』
「父親」
央人が生まれた日のことは昨日のことのように覚えている。
無事に生まれてきた安心感と、歓び。
自分の子供じゃないのにこんなに胸がいっぱいになって、こんなに感動するものなのかと思った。
早く会いたい、興奮して浮足立って俺は電話を受けたチーフに抱きつきそうになった。
あの日は午前中で仕事を切り上げさせてもらって、俺はすぐに桜の森病院へ向かった。
病室へ向かうまでの道のりがいつもよりもずっと長く感じて、けれど意識だけは焦っていた。
志緒ちゃんの部屋に行きそうになって、そうだ新生児室だと思い直した。
けれどその新生児室がどこにあるのか分からずもう一度病院の入口まで引き返し、ナースステーションへ。
教えてもらった部屋へ急いで向かいながら、俺は高鳴る胸の鼓動というものがこんなにもうるさいものだと知った。
着いたそこはどうやら一般の新生児室ではなかった。
志緒ちゃんの部屋がある最上階の一番端、少しうす暗い廊下。
扉の前に名札は出ていなかった。
本当はすぐにでも飛び込みたかったけれど、俺はひとまず廊下で呼吸を整えた。
ゆっくりと扉を横に引くと、窓際に聖の姿が見えた。
俺を見上げたその顔は、俺が知っている聖ではなかった。
いろんな感情が入り混じってどうにもならないような表情‥
きっとこれまでに体験したことのない大きすぎる感動に、どこか戸惑っているようにも見えた。
その上絶え間なく押し寄せる歓びで胸がいっぱいになって、既にキャパオーバーになってるような――その膨れ上がる喜びに溺れそうになっているような――。
今にも泣きだしそうな、それでいてうれしくて仕方ないような――‥
あの聖が、
俺にこう言った。
“こんな気持ち初めてだ”
病室で、俺の顔を見るなり――ベビーベッドの中で眠る央人を見つめながら――。
“航平、―――俺―――…”
“どうしよう”
“俺―――……”
あの聖が、目を潤ませて――
うれしすぎてどうしよう、という歓びだった。
聖は自分自身が初めて抱く感情に追いつけなくなっているようだった。
“航平、俺―――”
正直言うと、俺はあいつがあんな表情を見せる時がくるなんて想像すらしていなかった。
なにせ結婚前は、何があっても喜怒哀楽はほぼ皆無だったあいつが、だ。
それがあんな――……自分の感情を抑えることなく俺に訴えていた。
うれしい、うれしい、うれしい………あいつの体中から歓びが溢れていた。
あいつは自分から湧き上がる歓喜に翻弄され、その感情の高ぶりにさえ歓びを感じていたのかもしれない。
とにかくあいつは、これまでとはまるで別人のようだった。
央人が誕生してからのあいつは、まるで生まれ変わったように見えた。
聖があんなに穏やかな表情で誰かに寄り添う姿を俺はそれまで一度も見たことがなかった。
それは志緒ちゃんと二人でいるときとはまた違う―…守るべき小さな命を前にした、父親の顔だった。
あんなに優しい声で語り掛け、あんなに安らかな表情で央人を見つめ、心からリラックスしている聖がそこにいた。
志緒ちゃんと、央人と、3人でいる時に見せるその顔は、世界で一番大切な家族だけに向けられる、唯一の愛情そのものだった。
“この子は、私の願い”
“この子は私たちの希望”
央人は聖と志緒ちゃんの幸せの象徴だった。
大丈夫
君は愛されていた
俺は央人に真実を伝える義務がある。
自信をもっていい
央人が確かに愛されていた、その全てを、
この俺が証明する。
二人が少しも後悔していなかったこと。
二人が央人の誕生を心から待ち望んでいたこと。
それはいつか俺が必ず央人に
それだけは俺が必ずーー
聖は年に一度、桜の森公園に央人を連れて来ていた。
無数の桜が一斉に満開になるあの時期に。
志緒ちゃんと初めて出会った、あの場所に。
薄ピンク色のその向こうに広がる青い空。
“央人、見てごらん”
きっと君は覚えている。
“お母さんが大好きな花だよ”
聖は毎年、3人でこの場所へ来ていたんだ。
自信をもっていい。
君は、確かに愛されていた。
“見てごらん”
“央人、見てごらん”
俺が知っている昔の聖は、もうどこにもいなかった。
大抵の物事に対してははぐらかしたり受け流すためだけの薄い笑みしか見せなかった、あの聖はもういない。
聖は体温のある、生きている“人間”だった。
愛情溢れる一人の父親だった。
そこにはもう、淡々と、飄々と日々を繰り返すだけの無機質なヒトの姿は欠片も残っていなかった。
無表情が板についたような聖が――央人を抱いて、こんなふうに、信じられないような優しい笑みを浮かべている――……。
俺からしたらあり得ない事実だった。
ファインダー越しに俺は何度も思い知らされた。
聖は「生きる」ことができた。
志緒ちゃんや央人のお陰で、愛を知り、親になれた。
最後の浜辺でこちらを振り返った聖の、あの笑顔は
「生きている」人間の、本物の笑顔だった。
けれど俺は――
俺はファインダーから目を外すことができなかった。
“こいつがこんな風に笑うなんて”
あいつはあの日でさえ、世界で一番幸せな表情(かお)をしていた。
“航平”
“航平”
“央人が”
口の端を少しだけ上げて、眩しそうに目を細めた。
小さな背中の後を追い、遠く、遠くへと追い歩いて行った。
俺は―――
おまえに言葉を掛けることすらできなかった。
あの日俺は、この光景を残しておかなければと思った。
言いたかったことも、言い出せなかったこともたくさんあったはずなのに、何一つ口にできなかった。
けれど、せめてこの目の前の景色だけは―――
後ろから抱き上げられた央人は、聖の腕の中でうれしそうにはしゃいでいた。
顔を近付け、首元にじゃれついて笑うあの笑顔を、守ってやりたいと思った。
央人を抱き寄せ、ゆっくりと振り向いたその表情は、海風に吹かれ穏やかな笑みを浮かべていた。
おまえを失いたくない―――
あの時、それだけでも伝えていたら、何か変わっていたのかな――――――。
聖
俺はおまえに
俺はおまえに、何ができたのかな―――。