長編小説「きみがくれた」中‐50
「あどけない笑顔」
アパート跡地の端でりんごの木が満開の花を咲かせた朝、快晴の空に薄ピンク色が眩しくきらめくその下に、一年ぶりのマーヤが立っていた。
風に揺れるハチミツ色に透ける髪。木漏れ日に包まれた乳白色の淡い頬。
ゆっくりとこちらを振り返り、マーヤはほころぶように笑みをうかべた。
「やあ」
くるりと丸い大きな瞳はカラメル色に澄んで、それはいつものマーヤの笑顔だった。
「久しぶり」
変わらない人懐っこいその笑顔は、どこかあどけなさが残っている。
「霧島はまだ帰ってないんだね」
穏やかな風が空地を通り抜けていく。
光に溶け込むその横顔がふわりと緩んだ。
「立派な木だねぇ―――」
マーヤはりんごの木を見上げ、今年もうれしそうにつぶやいた。
「今が一番見頃だね‥僕、今日ここに来れて、とってもラッキーだったな」
このりんごの木が初めて花を咲かせた春に、マーヤはこの街へ帰って来た。
それからこの季節になるとマーヤはここでこの木を見上げている。
自分の背丈よりもよりずっと大きく成長したこの木を見るたびに、マーヤはうれしそうな笑顔を浮かべる。
毎年初めて見るような眼差しで―――そして今年、マーヤにとってこの木は“今日初めて見た立派な木”だった。
「あれ、この花ばばちゃんちにあったスミレと同じだ!」
りんごの木の周りを囲うように咲く小さな花に目を留め、マーヤはその場にしゃがみこんだ。
その花を指さす手首には、まだ真新しい包帯が巻かれている。
「わっ!匂いも同じだ!フリージアの匂いがする!」
マーヤは地面に膝をつき、その小さな花に顔を近付けた。
「絶対同じ花だよ!すごく珍しい品種なのに、ここにも咲いてるんだ!」
興奮気味に声を上げたマーヤの後ろに、もうあのアパートはない。
「ばばちゃんに教えてあげよう!こんなにたくさん咲いてるところがあったよって!」
うれしそうに顔を上げ、マーヤは「今日はほんとにラッキーな日だ!」と満面の笑みを浮かべた。
“そんなんでいいの”
“スミレ次第だよ”
まるでいたずらでも仕掛けるみたいにくつくつ笑っていたマーヤ。
“バクチだな”
“ちがうよ”
“バクチじゃなくて、奇跡だよ”
夕暮れ前の空の下、あの日もくるりと大きな丸い瞳がうれしそうに輝いていた。
「‥僕、霧島に謝りたいんだ――」
マーヤはここへ戻って来るたび、同じ言葉を繰り返す。
去年も、その前も、その前も、マーヤは今でもずっと、“霧島に謝りたい”ことがある。
真っ青に晴れた雲一つない空から予想外の一粒がぽつりと落ちた。
それはマーヤの頬にするりと伝い、吹き抜けた冷たい風の中へマーヤの姿も霞んで消えた。