長編小説「きみがくれた」中‐㊺
「別れの日」
あの日のことを、亮介は今でも“トラウマ”だと話す。
思い出すと“腹の奥が浮き上がるような感じがして”“心臓がボコボコ沸いて”“吐きそうになる”。
雪は午後になっても一向に止みそうになかった。
「この大雪じゃあお客さんも来ねぇだろうと思って店を閉めようとしてたとこだった」
亮介が店の窓の外を見ると、遠く“一面真っ白な世界に全身黒ずくめの人影が立っていた”。
「いやアレはマジでビビったよ。本降りのボタン雪で視界も白一色って中に、ぼんやり黒い影だぜ。こんな日に傘もささずに、しかもどうやらこっちをじっと見てるっぽいとくりゃ、ヤベぇやつが来ちまったって思うだろ?」
亮介は落としそうになった“花かご”を作業台の上に戻し、“恐る恐る窓に近付いた”。
「まさかと思ったら霧島じゃんか。あいつバカかっつうの。怖えしマジで。」
「俺ぁソッコー店のドア開けてあいつんとこに走ったよ。そしたらあいつ、頭から肩から腕も持ってた荷物にまでたっぷり雪積もらせて白くなっててさ。どうりで姿がぼんやりしてたはずだぜ。」
「つかあの薄着はねぇわ。コートもマフラーもなくパーカー一枚で外出るとかさ、あり得ねぇだろフツー。」
あいつの無頓着は度を超えてやがると亮介は呆れていた。
「いいからこっち来いっつって腕引っ張ってさ。手ぇ触ったらめちゃくちゃ冷てぇし、真っ赤だしもうなんなんだよおまえはって。」
店に引き入れた霧島の雪をはたき落としながら、亮介はそのギターケースとナップザックに“背筋が凍った”。
「一瞬で自分が超絶やべぇ危機的状況にあると悟った。どうする俺?!ってもう頭ん中パニック状態。ヤベぇヤベぇ!マジヤベぇ!!思考回路がヒュンヒュンで赤いランプ点滅点滅で緊急事態発生!!あの聞くだけでゾクゾクする警報みたいなサイレンみたいなのが頭の中でわんわん鳴り響いてた。」
“グルグル回るだけ回ってひとつも何も思い浮かばない頭で”それでも亮介は“必死に考えた”。
「俺があの場でできることといえば、とにかく霧島をここから出さないことだった。だから俺はとにかくあいつを店の奥に引っ張ってって、ストーブの前に座らせた。」
“今にもヒューズが飛び散りそうな脳みそをなんとか作動させて”霧島を作業台の後ろへ押し込むと、亮介はそこに蓋をするかのように立ち“出口をふさいだ”。
「俺は今何をしなければいけないか、それを考えて、考えて、思いつくことから手当たり次第にやった。」
亮介は“まず霧島の荷物を取り上げた”。
それから入口の扉の鍵を閉め、“ちょうど店じまいをするところだった感”をアピールした。
「咄嗟に出た言葉が“カレー”だった。自分でもウソだろと思うくらい、唐突に叫んでたんだ。」
“カレー!!”
“うち今夜カレーなんだ!食ってくだろ?!”
“しかも昨日の朝から煮込んでるやつ!!”
“すげぇ旨ぇぞ!!”
もちろん亮介はその日の夕飯が何かなんて知らなかった。
亮介はその日仕事で不在だった冴子を思うと“生きた心地がしなかった”。
「冴子は朝早くから配達に出ててさ。それが終わったら帰って来ると思ってたんだけど‥あの日入ってた婚礼が結局できることになったとかで。あの雪だから当然キャンセルになるだろうと思ってたんだよ。」
「それで一度帰って来て、ブーケ2つに花束3つ、ウェルカムボードにトーチにリースとそこそこモリモリな内容を積み込んでまた出てってさ。」
「道も混むだろうしって早めに出たから、霧島がここに来た時には冴子はもういなかったんだ。それに帰りは夜になるって分かってたから―」
“待つだろ?”
”なにせ2日寝かせたカレーだぜ”
もう理由なんてどうでもよかったんだけど――
亮介は“なんとか時間稼ぎをしたかった。
“止まったら死んじまうマグロ並みにひたすら口を動かしていた”
“あの時の強迫観念”は“何とも言えない”緊張感で“呼吸もうまくできなかった”。
「あの状況で、とにかく俺は自分にミッションを課したんだ。霧島を一歩たりとも店の外へ出さない。せめて冴子が帰って来るまでは、っていうね。」
あの時亮介にできることは、それしかなかった。
それくらいのことしか思いつかなかった。
「絶体絶命の大ピンチってああいうのをいうんだ。でもなんとかしなきゃ、どうにかしなきゃって必死だった。」
亮介は“とにかく一人でしゃべり続けた”。
そろそろ美空を迎えに行かなきゃいけないから店番を頼むとか、それとも店を閉めて一緒に迎えに行くかとか、美空もおまえが行けば喜ぶとか。
「そもそも美空は母さんに預けてたし、冴子が帰りがけに迎えに行くことになってたから、あの時の俺の言葉はカレーも含めて全部ウソっぱちだったんだけどな」
亮介は“どうしても”霧島を“少しでも長く”引き止めておきたかった。
たとえ、霧島がその日のうちに“どこか遠くへ行ってしまうとしても”。
「口実なんて何でもよかったんだ‥思いつくことは何でも言った」
「ウソでも何でもあんときは罪悪感なんかこれっぽっちもなかった」
どうしても霧島を“足止め”しておきたかった亮介は、けれど“何を言っても空ぶりっぱなし”だった。
“亮介”
それまでずっと黙っていた霧島がついに口を開いた。
「あの時は‥こう、背中から細っそい針をすうっ‥っと刺されて、胸を突き抜かれたような気分だったよ」
亮介の頭の中で、“終わりの鐘”が鳴った。
「歯医者で麻酔かけられたみたいな、奥歯がぞわぞわするような違和感が首筋に走ってさ…今でもめっちゃリアルに思い出せる‥」
“俺、もう行くよ”
“心臓が凍りついた”亮介は、それでも“諦めるわけにはいかなかった”。
「それでもう、俺は最後の手段に出た。こうなったら実力行使だって、荷物を取ろうとした霧島の前に立ちはだかった。こう両手を広げてさ、子供みたいに通せんぼだ。ほんと、今考えると情けないよ‥あんなことしか思いつかないんだから。」
“せめて冴子に会ってやってくれ”
亮介は“祈る思いで”そう言った。
“頼む”
「———―――“いい”って‥あいつあっさりそう言って俺の横をすっと抜けて、一番奥の奥に押し込んどいた荷物を手に取って」
“よくねぇ!”
“おまえがよくても俺がよくねぇ!!”
亮介は霧島の腕を掴み、訴えた。
“このままおまえを行かせたら今度こそ冴子に何て言い訳すりゃいいんだ”
“頼むからもう少しだけ待ってくれ”
“頼むよ”
「もう、我慢比べみたいんなってさ。しばらく睨み合いみたいな、ちょっとでも目ぇ逸らしたら負けみたいな。俺、油断したら逃げられると思って瞬きするのもこらえてた。」
“あいつを泣かせたくないんだ”
亮介は“切実な思い”を“まっすぐにぶつけた”。
“会ったらもっと泣く”
“会わなきゃこの先ずっと泣くんだよ!!”
これ以上成す術がないことは亮介にも分かっていた。
“子供みたいなマネ”しか思いつかなかった亮介は、霧島の手からナップザックを引ったくった。
「そしたらあいつ、俺の目ぇじぃっと見てさ――」
“俺、マーヤになにもしてやれなかった”
その言葉に亮介の手が緩み、霧島は簡単にナップザックを取り返した。
そしてギターケースを肩に掛けると、亮介に背を向け歩き出した。
“おまえそんなこと考えてたのか”
濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、亮介の言葉を待っていた。
”この何か月かおまえはまだそんなこと考えてたのかよ”
亮介は呆れたように溜息をついた。
“夏目に何もしてやれなかった?”
“‥うん”
「俺さ、マジでこいつバカじゃねぇのかと思ったよ。あん時俺があいつのアパートの部屋で言ったことをなんも分かってなかったんだから。」
”なにもしてやれなかったはずあるか”
“夏目がおまえに何かして欲しかったと思ってた?”
”おまえはそう思ってるってことか?”
“やっぱおまえはなんも分かってねぇな”
そして亮介は“形成を立て直し”、霧島の“純粋な”“ひとつの曇りもない目”を目掛け、こう宣言した。
「“俺は今ここで、おまえに言っておきたいことがある”。」
俺はあいつからもう一度荷物を奪い取って、俺の話を聞けって言ってやった。
きっとしばらくの間は帰らない。
だから、“どうしても言っておかなきゃと思った”。