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2020年7月15日水曜日 意味中毒な僕

なんか最近、どうせnoteに投稿するなら、ちゃんとしたものを投稿しなきゃなという呪縛に囚われている。僕にとってちゃんとしたものとは、稚拙でも浅薄でもいいから問いを立てるということであり、読む人にとって示唆に富む内容を含んでいるということで、逆にちゃんとしていないものというのは何時に起きただとか、何を食べただとかそういう日常的な出来事についての事実的叙述である。

なーんか堅苦しくてやってらんないよね、もっと肩の力緩めてやっていこうや。文章書くのって楽しいぞ〜。文章を書くのは頭の整理ができて自分のためになるっていうのもあるけれど、特に誰かに見られていると思うと、頭良く思われたいとか、誰がこんなもん読むねんみたいな文章書きたくないな、とかそういう他人に認められたいという感情が出てきて、純粋に文字を吐き出すという行為を鈍らせてしまう。このそういう他人に認められたいという感情とどう向き合ったらいいんだろう。

それで、僕はこうして夜遅くまで何書こうかなと悩み続けることになっちゃう。ほんとは僕からしても他の人からしても、何でもないことはあったさ。youtubeでレシピを見て作ったパスタ マルゲリータ が美味しくできたとか。彼女が飲み会に行くと言ったから、今日は会いたいから行かないでくれと言ったのは本当によかったんだろうかってこととか。ああ、こんなことを書けばよかったのか。でも、こういう日常のささいな出来事を書くことに意味はあるのかなと思ってしまう。僕は何にでも「それって意味あるの?」って意味を求めてしまう、意味中毒者なのかもしれない。意味中毒者はこれからどう生きていけばいいんだろう、意味が枯渇した時何が起きるんだろう。僕って、生きている意味あるの?

今日は14時ごろに起きた。昨日というか今日の朝まで起きていたから、当然の結果だ。またしても2日ほど風呂に入っていなかったので、流石に気持ち悪く、すぐにシャワーを浴び、歯を磨く。こういう時、昔の人はどうだったんだろうと思いを馳せる。現代の僕たちの衛生観念からすれば、大半の人が体も汚いし、臭かっただろうから、僕が今気持ち悪いと感じている臭さや汚さは思い込みなんじゃないかと思ってしまう。つまり、時代さらに空間を通じた普遍的な臭さなど存在せず、時代や場所の制約を受けて、相対的に臭さという衛生観念は成立しているのだから、本当はこの臭さなど存在しないのではないかというわけだ。このような懐疑は可能なのだろうか。そして、どうしてこのような問いが浮かんでくるのだろうか。

こうした汚さを取り除くために、僕はシャワーを浴びるという未来の不快感と汚さをそのままにしておくという現在の不快感の利益衡量によって選択している。*1 この不作為をそのまま続けると不快感が増していき、シャワーを浴びなくてはならなくなることが予想できるから、シャワーから逃げるために、本当はこの不快感は嘘なんじゃないかと考えたくなるというわけだ。でも現にこの不快感は感じられて、疑う余地がないように思えるし、日常生活ではそんな懐疑は持ち出さない。どうして、本当はないかもしれないというのが一種の解決策のように思えるんだろう。

*1どうして未来の不利益と現在の利益を比較して考えることができるのだろうか。一つは、未来の不利益とは言えども、それを想像しているのは現在なので、それは現在における不利益とも言えるからというものである。


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