うみべの女の子
最近、映画ドライブ・マイ・カーを観た
希望をみせてもらえた
その二日後に、国境の南、太陽の西を読み終えた
村上春樹っぽくて心地よかった分読み終わった後の不快感がすごかった
人との関わり方とか、自分と関わる相手をどう認識しているかどう認識することができるのか(ここでのできるっていうのは選択肢の一つが増えるという幅の意味で自分の可能性の深度の話ではない)についてなるほどと思うことが多かった、それでどれもにリンクを感じた
まず、映画どうだった?と聞かれたら、地獄的だったと答えるしかない
言葉にするだけの時間がなかったとか感想をもてなかったとかではなく
序盤から嫌な予感はしてたけど
まさかとは思ったけどその予感を大幅に超えた冷たさの氷水に私の心臓を浸され続けた2時間という感じ
そもそも、映画を観る時間はすきだけど、なんですきかというと
現実逃避できる、瞬間的で消費が簡単な手段だからであって
何時間かだけ簡単に誰かに自分を投影できる
擬似体験できる、他の人の視点で物語をみられるからだと思っている
はじめて、観ながらこれが永遠に終わらないか、上映中にこの場にいるみんなが物語を忘れちゃうくらいの大火事か大地震が起こればいいのにと思った
片方は近づいてくるものを拒否して閉ざしていて、もう片方は中に踏み込んでいくけど、前者は何もわからないくせにと言って突き放す、後者は関わることを望むしそれをしたい(するべきだ)と信じている
どちらが良い悪いということでもなくて
前者は大抵、自分が体験していることを知らないおめでたく見える後者を見下していて、結局ダサくてウザくて見苦しいのは後者、(これは猫好きと犬好きの話もそう)の図が多くて、絶望の中にも数少ないけどいくつかある伏線(だと思いたい)にスポットライトを当てることだけがあしたも生きたい理由になる
でもただある夏のある場所でのこういう出来事って純粋なお話だったのかもしれない
終盤になって安心してたら
エンドクレジットの最初の文字にやられてしまい、もう笑うことしかできなかった
傷口に塩を塗られるというか、傷口のそのまんまの形を同じ深さでなぞられるような思いをさせられたもーこりごり
映画が終わって、象徴に苦しめられるヒッチコックの映画レベッカを思い出した、出来事とか言葉とかがなくっても、実態のない影、私が関係を築きたい対象の顔にうつる影の干渉のせいで人と人の関係性は簡単に変わっちゃうことの実体験
ところで、これは彼側の目線では全く書いていないなぜならムカつくから!
あとこの作品の存在を私に知らせちゃったあいつをマジで憎んでいる
あと完全に個人の意見で性描写が苦手で恋人同士のそういうシーンは表現をする上で必要なのかなあと思う毎日だけど、この作品のそれはそんなにしんどくなくて、というか別のものとしてみえるところもあったからだと思うけどしっくりきたのはそれが両者を繋いでいる唯一のものみたいな感じがしたからかなあと思った
それで、すぐに関係性を移行しようとしたり名前をつけるのがすきじゃない私の考えとしては、底にある感情とか何かをきっかけに目覚める感情とかを持っていてもみえていない状態とみえた後の状態の間に超深い溝ができるんだから何も焦らなくて良いよって言いたい!余計なお世話
能力がなくていろんな物事を分けて考えられないなら、あらゆることを自分ごと化して考えなきゃいけない状況がたくさんでてくるのに結局自分ごと化しちゃうのは自分が被害者だと信じ込んじゃってる問題でしかもそういう場合は大抵相手はそれを求めていない
本当にどうしようもないのは都合の良いところだけを解釈してそれで自分を形成してしまい、それを周囲にも強制しちゃうこと、あなたの歌はあなたにしか歌えない
親切にしてやったのに、とかそういうの結構嫌いだなあと思い出した
最初のほうに心臓を冷却保存されたとかなんか書いたけどそれもお門違いの被害妄想で(笑)私のレシピで作ったあなたの料理の過程で焦がしちゃっても私にクレーム入れないでよという話で、あれでもこういう思い込みは使い方次第でポジティブなエネルギーにはなりうるからまあいいか、今と思った