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■わたしは、愛を語りたい。


「どうして、私たちは愛を語らなくなったのでしょうね。」
大学の先生がおっしゃった言葉が、わたしの頭の中で残像のように、しかしその輪郭はくっきりと、まぶたの裏に引っ付いたっきり離れない。

わたしは、愛を語りたい。
注がれてきた愛について、
わたしの欲する愛とは、
わたしの内側から溢れる愛についてを、語りたい。

ゆっくり、しっとり、日常の中で。
「あなたがここにいてくれることがいかに素晴らしいことか」と言う感動に包まれながら、愛する人と、愛を語りたい。
そして、その人の愛とするところを聞きたい。静かな生活の中に流れる、「愛」にとても関心がある。
ただ1人の人間として「愛」にとても興味がある。

でも、なかなか語れる人がいない。

わたしの中に芽生えつつある「愛」らしきものも、母に話せば「まだまだ幼いね」と一蹴され、友達には「宗教みたい」と笑われる。

どうしてだろう。目の前の人を身体的にも精神的にも社会的にも非力ながら、誰かを愛おしいと思うことが、伝えたり共有したり語らおうとすると、突然許されない出来事のようになってしまう。
わたしよりも大人な方からは「まだ、何もわかっていないくせに」といったニュアンスで責められる的となり、同年代からは「夢見がちな人」と思われる。そこまでいかなくとも、「う、うん…」「へ、へぇ…」と言う引きつった相槌から、多少なりとも引かれていることがわかる。

「リア充」「(彼氏がいるように)思わせぶり女子」などと言う単語が世の中に氾濫し、人々が他者の幸せや愛を察知すると、静電気でも発生しているのかと思うほどに、バチバチと、ひどい言葉が何の躊躇もなく生み出される。

何故なのだろう。どうして、控えめに幸せでいることしか認められないのだろう。
もしかしたら、SNSの発達で、何の前触れもなく「愛的な幸せの暴力」を受ける人が多いからかもしれない。例えば、自分が疲れている時に、知り合いが全員集合して楽しい時間を共有した投稿を見たら、多少心が曇るかもしれない。
でも、SNSは一種の虚像にすぎないし、あれはリアルタイムの今を投稿しているようで、「キラキラしていたわたしのいた時間」を早急に消費する活動にすぎないのだから、キラキラな投稿を見る頃には、それはとっくに過去の出来事なのである。そして、そこに流れる時間は自分の時間ではない。投稿者が今をときめいた時間の断片、ただそれだけだ。

わたしは、虚像を羨ましがるのではなく、現実の愛する人と、静かに愛を語りたい。
年齢も関係なく、語り合いながら気がつけば朝を迎えたい。

年齢に関しては、世間に様々なしがらみが存在している。「26歳女性」と聞くと、「結婚適齢期」「出産」など、あたかも年齢其れ相応といった威張り顔の単語が関連ワードのごとく頭の中に並ぶだろう。でも、年齢に関係なく、人は皆違う人生を歩んできているのだ。そして、歩んでいくのだ。他人が介入できる範囲ではない。たとえ8歳の少女だとしても、きっと彼女の中にもう「愛」のようなものは存在していて、その感性や考えは尊重されるべきなのだ。

わたしは、愛やその周辺のことをもう少し穏やかに、理性を持って語り合える人と、そういった時間を大切にしたい。

もどかしい、もどかしいと、そんなことを考えていたら、そろそろお洗濯物を取り込む時間に。皆様、良い週末のひとときをお過ごしください。

(a.m.3『■わたしは、愛を語りたい。』)