ポムロスが酷い
わたしと婚約者は、脳内で「ポム太郎」という犬を飼っていた。ちなみに愛称は「ポムちゃん」だ。
順を追って説明していこう。
「一緒に暮らし始めたら犬を飼いたい」と言いだしたのは向こうである。対してわたしは本来圧倒的な猫派であるため、譲り合いの精神を表明し「ポメラニアンだったらいいよ」と答えた。
でもペットショップで買うのはちょっとなあ、できれば保健所や譲渡会でなにかのご縁あって迎えたいなあ‥。そんなことを話しながら、かわいらしいポメラニアンの画像を見つけては送り合っていた。そしてある日、「うちのポムちゃんの方がかわいい」という返答がやってきたことがあった。それはどうやら、彼が我々の飼い犬につけた名前のようだ。
(なるほどそっかあー。わたしは熱心なポムポムプリンファンであるし、まあちょうどいいね!)
しかしすれ違いというものは、ある日突如として訪れる。
それまでわたしたちは、「ポムちゃん」というワードをLINEのメッセージ上でしか共有してこなかった。
その日もいつものように、インターネットの海で見つけた人様の家のポメラニアンの画像を無断でお借りし、「ねえ見てー!ポムちゃんこんな格好して寝てるよ(笑)」と、あたかも我が子のように語っていた。
ただ一つ違ったのは、コミュニケーションツールが電話であったことだ。
「ちゃう、"ポムちゃん"や」
「へ?」
「だから、"ポムちゃん"やって言っとるやろ」
どうにか文字に起こすとすると、こうなる。
わたしはポムちゃんのことを、「ポム↓ちゃん↑」と発音していた。これは「リカちゃん」「タラちゃん」などと同じで、至って標準的で一般的な発音であると言える。
一方彼は、大阪で生まれ育ったコテコテのなにわの男である。ポムちゃんは「ポ↓ム↑ちゃん↓」であり、ファミマは「ファ↓ミ↑マ↓」だし、マックは「マ↓ク↑ド↓」なのだそうだ。
世界人口約70億人のうち、英語はその25%、約17.5億人が実用的に使っている言語だという。そんな英語ならば、もはや小学生時から習い始める一般教養であるが、日本人口の約1/6のシェア率を誇るはずの関西弁はなかなか心得る機会に恵まれない。
多くの動物は、人間の言葉をそれ自体ではなく"音"によって理解しているらしい。
うちのポムちゃんは果たしてどちらのかけ声に反応してくれるのであろう。
わたしにとって犬を飼うのは初めての経験だったが、自分なりに脳内のポムちゃんを大事にしてきたつもりであった。
粗相をすれば、あのキュートな口角でヘヘッと笑ってごまかされてもきちんと叱ったし、初めてお手が出来た時は我が子の成長のように嬉しかった。
ポムはわたしたちが些細なことで喧嘩に発展すればひょこひょこと間に入って和ませてくれたし、なにより疲れて帰ってきた時に」おかえり!おかえり!」とピョンピョン飛び跳ねながらじゃれついてくる姿が愛おしかった。
そんな日々が、いつまでも続いてほしかった。そう願っていたはずだった。
だけど、ある時わたしが起こした行動によって婚約者を裏切る結果となってしまい、婚約は一度白紙となる。
「ポムの親権は‥!」とねばりたい気持ちがなかったわけではない。
ただし彼を傷つけるようなことをしてしまったのは自分だし、ポムちゃんをダシに使うなんてきっと間違っている。
しかし、どんなに前を向いて行動していても、ふとした瞬間に「とりかえしのつかないことをしてしまった」という後悔が襲ってきてしまうのだ。
(わたしのポム発作に付き合って話しを合わせてくれる優しき友人)
今夏の入院中、なにかと良くしてくれた同室のフィリピン人女性は、生き別れの息子さんの写真を肌身離さず持ち歩いていた。
母親の愛情というものを実感せずに育ったわたしは、彼女のその姿にいたく感心したものだった。
わたしもポムの写真が欲しい。本当は会いたい。けど、今はどうしても会えないのだ。だからせめて、ポムの写真を心の励みにしたい。しかし現実に、ポムはいない。
(これは見かねた知人が送ってくれたその人の飼っているポメラニアンの写真であり、実際のポムとは異なります)
わたしは今、必死で己の課題を見つめ直し、生活を立て直しているつもりだ。
人はあっという間に、得た教訓を忘れてしまう。なにかを失った痛みが、自分を支えてくれることだってあったっていい。
「元」になってしまった婚約者は、とても優しい人間である。そして、厳しい人である。
だからこそ、わたしがもう一度しっかりと生きていけばもう一度ポムに会える日もくるのかもしれない。そう思って強く在りたい。せめて月イチくらいは面会させて欲しいよ‥ポムーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!
(スタンプ買った)