「女に生まれてよかったー!」と味わう時はいつだって/俵万智とブルゾンちえみ/ひとり交換日記
いつかあの子に言ったのを覚えてる?
「わたしは物事を明るい方に受け取るのがすきで、あなたは悲しい方に受け取るのがすきで、それはもうピンクがすきか水色がすきかのような好みの問題だから、仕方ない」って。
あまりの幸運が目の前に降ってくると、それを不幸の貯金で清算しようとするのは、もうやめなさい!
あんなことがあったから、こんなことがあったから、だから訪れた幸せだ という答えでは、ないんじゃないかなあ。
元々すきだったよ、ピンク。すっかり忘れてたでしょ?
だから今日は俵万智の話をします。
そう、「サラダ記念日」の俵万智。
ドキッとしたのはこの一首。
逢うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月
出逢いは、たまたまだった。
うわーこんなこと言うんだ。うわー!凄い!と、しばらく胸の高鳴りがおさまらなかった。
こんなこと言うくせに、こんなに大胆なこと言うくせに、なんて品のある告白なんだろう。
それって、ちゃんとルールがある上での言葉だからじゃないかな と思うのです。
5・7・5・7・7にぴたりと当てはめられた、行き場のないはずだった気持ち。
本屋に行って買ったエッセイには、もっとどきりとする首がありました。
今我を待たせてしまっている君の胸の痛みを思って待とう
そしてこう続くのです。
「ふっともの思いにふける時、それはあなたのための時間ではなくて、私のための時間になる。」
なるほどねえ。
これまた最近ハマっているブルゾンちえみも同じことを言っています。
「探さない、待つの!」
そうなのです。
女にとって待つという行為は、「女に生まれてよかったー!」と噛みしめる瞬間なのではないでしょうか!
そうは言ってもこの数年、待てる女になりすぎて散々苦しんだじゃない、とあなたは言うでしょう。
だけどそんな時に見つけたのもこれでした。
俵万智「恋しい人を待つ覚悟」
「待つ」という動詞は、他動詞なので、文法的には「〜を待つ」というように、目的語がなくてはならない。が、いつのまにか「待つ」ということそのものが、それだけで成り立っているような、そんな気持ちになっていた。誰を待つとか、何を待つとか、そういうことではなく、もう、この「待つ」という時間を積極的な自動詞として私は生きよう、という心境である。
はじめのうちは、疑ったり、悩んだり、心配したりと、心がめまぐるしく動き、泥水のように濁った状態だったかもしれない。が、嵐の後で川の水が落ち着くように、だんだんと砂粒や石ころは沈殿してゆき、濁りのない水のような時間が訪れる。
わたしは自分が待ったこの数年を振り返って、心が曇ったことはきっとない。時間をムダにした だなんて思ったこと、一度もない。
覚悟をする、というのはそういうことだ。
通り過ぎるまで、物事の結果はわからない。結局こうだった、なんてそれだけで終わりたくない。「男は結果を重視するけど、女はプロセスを大事にする」なんてよくビジネス書にも書かれてる。
だから決めたの、わたしはわたしのことしか待たない。わたしはわたしの、幸せを曇りなく感じる心を待つよ。
周りによく驚かれるのは、昔やってたドラマに突然ハマったりするところ。今の世はどんどん新しいものが生まれて、新しいものに溢れている。でもきっと、もう自分がすでに持っているものが新しい顔を見せることだって多いはず。それが深めるってことだ。
国語の教科書で読んだ十数年前には想像できないくらい、女の目線で俵万智を読むわたしはもうここにいる。
ねえ、ちょっと、今年はどんどん深めていかない?
男友達との恋愛は絶対に無理だと思っていたけど、そうなるともしかするともしかするのでは?と思い始めた今日のわたしより。