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カインコンプレックスだなんて生ぬるいもんじゃない/ひとり交換日記

さあ、俺を超えて行け!的なことを言いたかったんであろうわたしへ

また、喋れなくなるかと思った。

あの事件を境によく泣くようになった。
「ひよりさんが泣くところ、見たことないんだよね」と噂されていたわたしが、すっかり泣き虫になった。

一つ目。
泣いたってなんにも叶わなかったこと。
泣いて希望を通して貰えたことなんてない。だから涙を武器には使わない。

二つ目。
泣いたら喋れなくなるから。
黙ってたらわからない、ちゃんと話しができないなら泣くな、と昔よく怒られていた。
普段泣くのを我慢していると涙の貯水量が物凄いようで、一度泣き始めると止まらなくなってしまう。

以上の理由から、泣くことに対するメリットを見出せなかったので、泣くのは人のためにうれしい時とか、人のために悲しい時。

じゃあ今日はなんのために泣いたのかと言えば、自分のためだった。

また、喋れなくなるかと思った。

わたしは結局いい子ちゃんなんだ。自分が我慢すればいいことは、口に出したくない。言っても叶わないなら、絶対口に出したくない。

でも、悲しみは代わりに目から出てきた。だから、口からその理由を言うしかなかった。

めんどくさいって言われなかった。
迷惑かけるなって言われなかった。
どうしてそんなワガママ言うの?って言われなかった。

そんなこと言うのは、もしかしたら母と父以外にはいないのかも知れない とやっと気付いた。

喋れない というのは、本当に喋れないのだ。
だって、聞いてもらえないから。聞いてもらえるなら、わたしは喋ることができる。
そんな簡単な仕組みに、ずっと気付かずにいた。

あの事件から、人が変わったように感情的になることとか、急にふっとシャッターを降ろすことが増えて、周りはきっと驚いただろうけど、わたしもわたしで自分にびっくりしていたの。
だけど、取り戻せなくて。ずーっと取り戻せなくて。起こる前の自分に戻りたかったの。でもだめだった。ちゃんと、これでも、一年半、時間は進んでいたからね。それを知った時、わたしはちゃんとここにいて、ここに返ってきた。だからこうやって自分との対話を始めたのかも知れないね。鏡を見て話しかけるような行為を、笑う人もいるだろう。それでも、こんな顔してたんだって見つめてあげたい。

感情的な自分を子供みたいだと冷静に見てしまうもう一人の自分がいる。でもね、これってリハビリだ。子供時代のわたしを、大人になったわたしが育ててあげよう。自分が親ならこうしたのにってこと、ぜんぶやってあげよう!

緘黙症はどうやらメールだとしても同様の反応になるらしい。
もう、半年以上まともに返せていない母からのメール。「チーパパが入院した」って、こんな時にすらなにも言えない。おばあちゃんからの電話も出れない。
今わたしがどこで暮らしているのかすら知らない人達。何百回、何千回と向き合ってきてそれでも理解し合えなかった人達。
いつか自分のことを話せる時はくるんだろうか。
家族って、血じゃないんだろうな。

それでも鏡を見る度、そっくりな母の顔を思い出す。

結婚は、新しい家族が増えることだとよく言う。

違う戸籍になれば、生まれの家族とだって新しい家族になれるんじゃないかという希望が、まだ捨てきれてないんだ。

思い返せば、家の外に出てみれば、聞いてくれない人なんていなかったな。
出逢ってきた人たち、みんな優しかった。もしも泣いたなら、泣きやむまで待ってくれた。
わたしも泣いてる人を、たくさん待った。めんどくさいなんて思ったこと、ぜんぜんない。(いや、めんどくさくてすぐ笑かしにかかってしまう癖はあるかもしれない。)

思い出したのは、わたしの涙のスイッチは優しくされた時だったってこと。

忘れてたなあ、すっかり。

家を出るまでの20年や、物凄く苦しかった半年や、そんなものに足をひっぱられてる場合では、ないの。

長い、長い人生だ。順当に生きれば、あと60年以上もある。

かなしいことの記憶量が多ければ、どうやったって先まわりしてかなしかった場合のことを考えてしまう。それでも、外に目を向ければ、明るい考えを持った人たちは確かにいる。

楽しい事なんてこの世には死ぬほどたくさんあるのよ
だから笑うの もっと笑って逢いに行こう

いつも黒い渦から連れ出してくれたaikoさんに、会えるのは3日後。

たくさん我慢したね。たくさん我慢したから、もう我慢して生きなくてもいいよ。笑おう。泣いてもいいよ、でも笑ってたらもっとうれしいよって人たちを、たくさん見つけに行こう。

トマトのホワイトソースのおうどんが成功してうれしい今日のわたしより!

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さとうひより
原稿料代わりに・・!?