悪魔を殺して平気だろ?
ぎしりぎしりと、身じろぎをすると慣れ親しんだ音がする。
ベッドのスプリングは過重を許さない。身相応の重さのみ受け入れるが、それを越えれば異常を発露する。
数年前からこれはずっとこの調子で、いつかより良い物をと思っていたが、終にその機会は訪れなかった。
瞼を開けて、天井を眺めた。
部屋を閉める天蓋に異常は無い。そのまま自身の記憶に追想してかつての部屋を思い浮かべながら見回す。だが、眼下に広がる光景は、その在り方とかけ離れていた。
叩き斬られたリビングのテーブル、水の止まらないキッチン。電化製品は銃弾を受けてばちりばちりと音を立て、黒い塵はそのあたりに散らばっていた。
その様子は、数日も前には過ごしていた、名状しがたい団らんの破壊そのものだった。
母は、この場で死んだ。
アマノサクガミによってその姿を模倣されたものは、殺すと塵になった。だから、母の死体はその場には無い。
無いがゆえに実感ができず、曖昧模糊な思いがだんだんと占めていき、もしかしたら、そう有り得ない仮定を繰り返す。
もしかしたら、まだ出かけているだけで――――。
『バウ!ワウ!』
かぶりを振るう。パスカルのあの様子は、そういう事なのだろう。
だから、仮定を繰り返しても無駄なのだ。
もしこの騒ぎの中家から出ていなくても2人揃って殺されていただけだ。
悪魔と関わらなければ力を付けられず、力を付けてからでも、警察に捕まった時点で手遅れだった。
奇妙な夢を見てから、こうなる運命だったのかもしれない。
それに、この騒ぎが好奇心を掻き立てて、興奮していたのも事実だ。
明らかな異常事態の中悪魔と共に力を付ける実感は奇妙な背徳感と共にあり、自身が暴力かあるいは善行か、どのどちらに居るのかは定かではなかった。
それが今になって他人事ではなく自分自身の事だと自覚している。
もう、後戻りができる時分などとうに過ぎていたのだ。
ならば、どうする。
ギチリギチリと頭が最適化されていく。この災禍の中で、生き残る――否。降りかかる悪意を押しのけて殺し返す方法を持たなければならない。
これは生死や善悪の問題ではない。自分の意思を貫き通す方策の問題だ。
母の弔いはできない。それは全てを終わらせた後だ。最後に帰る日常は、最後に在った日常を弔うものでなければならないからだ。
ガチリと自身の在り方が定まった上で、扉を開けた。二度とこの家で過ごすことは無いのかもしれないが、惜しむ物もここには無かった。
「バウ!ワウ!バウ!ワウ!」
玄関の横、パスカルが叫んでいる。恐らくパスカルは、全てを知った上でこの鎖に繋がれたままだったのだろう。
その表情は、悲壮と苦悶に満ちている。だからこそ、自分の意思を通したいと叫んでいるのだ。
「……付いてくるか」
鎖を外し、そう促す。普通の犬に何ができるのかはわからないが、普通の人間にもここまでできるのだ。
「バウ!」
力強い鳴き声だった。
「あっ……もういいのですか?」
玄関の扉を開けると、門の左右にヨシオとワルオが居た。自分が付けたあだ名だ。
こくりと頷き返すと、ヨシオが僅かに逡巡するが、すぐにワルオが声を上げて遮る。
「んじゃ! これからどうすんだ? 夢で見たあの超人を倒そうにもどこに行きゃあいいのかわからねえぜ」
「いいや、当てはある」
懐からIDカードを取り出す。……これは、あのアマノサクガミが持っていた物だ。
「駅の南口、幽霊ビルのIDカード。幽霊が出るのなら……悪魔だって出る。
そこへ行って片を付けよう」
「片を付けるというのは……」
「殺す」
アマノサクガミがエコービルのIDカードを持っていたということは、そこから来たという事だ。それにケリを付けなくてはならない。
「良いな! 乗ったぜ。そうでなきゃ付いてく意味もねえからな」
「バウ!」
ワルオの言葉にパスカルがそう返事をしていた。だが、そこでようやくパスカルの事に気づいたのか、2人が怪訝な表情を浮かべた。
「えっ……? 君の犬も連れていくのですか?」
「おいおい、そんな犬っころ連れてってもよお……」
「人間でも戦えるんだ。パスカルだってきっとやれるさ」
ワルオがパスカルに近づき、しゃがんで顔を合わせた。
「オメエよォ……悪魔と戦うんだ、やれんのかよ?」
「バウ!バウワウ!」
酷くドスの利かせた声で鳴く。
「ま、お前のゴシュジンサマだって悪魔の力借りてんだから、ただの犬でもなんかできるか」
「そのパスカル君を悪魔と同列視するのもどうかと思いますが……」
――――悪魔と、同列視?
思わずパスカルの方を見る。パスカルも丁度こちらを見つめ、バウと一言鳴いた。
「……行こう。準備だって必要だ。きっと、激しい戦いになる」
脳裏に浮かんだ考えを一度置き、2人を促した。
善悪の可否ではなく、全てを壊しかねないのはこの意思なのだろう。
『光と闇、法と混沌。世界のバランスがくずれようとしておる。
いずれにかたむこうと結果は同じじゃお前ならどうする?
いずれにせよもうひきかえすことはできぬ』
いつか聞いたそんな言葉が、頭をよぎった。
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